シーソー

 天使or悪魔のバランスを欠いている時には、はっきりと墜落している感覚が架空性足の裏に伝わっており、おそらく傾きが零 -ZERO-の地面に対して視線は仰角45度でロックされていたので、視野狭窄を起こしているのは瞳ではなく、瞳を司る意思の方、つまりいわゆる精神が認識しているのはクローズアップされた針の穴サイズの小さなフレームに区切られたわずかな青い空だけである。
 本来ならばヒトの顔の前面についている二つの瞳の視野は180度から200度とされており、対面に何者か(おそらく天使or悪魔)の姿を認めることが容易なシーソー上で、しかし予想はことごとく自らの希望的観測を裏切り続けていた。
 青い空は前述の通り4ピクセル程度の大きさの青い点であるとしか認識することができず、ものすごく長大な望遠レンズの先でちらちらと星に似て輝いていたから、そもそもそれは例えば奇抜なブルーのTシャツを着た天使or悪魔である可能性はこれっぽっちも零 -ZERO-ではなく、青空とTシャツの判別もつかないことが、言うまでもこの場合は真だった。
 ここで墜落した事実に立ち返り、足の裏の触知を唯一の根拠として姿勢制御を試みることは生まれたばかりの子鹿と同様に本能的で、地に足が着いた、というレトリックがようやく字義通りの意味を伴って肉体に浸透する。泥濘であれ地雷原であれ地に足が着いている状態は少なくとも浮遊や漂流よりも安定していることに気がつく。
 脚を軸に据え仰角45度ロックの望遠レンズを力技(散歩、ネットカフェ、JazzBar等)で彷徨わせることで視界を覆っていた暗黒ブラックシャドウがスクラッチくじのように4ピクセルずつ削れるようになっていた。ダークマター(暗黒ブラックシャドウ)の残量が50%を割った時点で一斉に黒面が霧散し青空をバックにして仰角45度のシーソーの対面に座っているもうひとりの小さな自分(天使or悪魔)の姿を認めた時、本当に今更ながら自分がどんな格好でシーソーに座りながら墜落していたのか理解することが出来る。
 世の中のどんな物事にもバランスが関係していた。意図的に偏らせることで意識的に視野狭窄を起こし、その結果、時間・体力・気力・資金などのあらゆるリソースを効率良く使うことが出来るようになると考えていたけれど、誰かの正義が誰かの悪に成り得るように、どちらかに傾くとシーソーには必ず悪魔と悪魔が出現するようになっており景色が4ピクセルの広さになる。バランスを保って地面と板が平行を成す、ごく僅かな瞬間だけ天使と天使が現れる仕組みである、と考えた。
 何年か前に買っていつの間にか使わなくなっていたイヤホンを宝箱から引っ張り出して聞いたことの無い音楽を聞きながら本も読まずに電車に揺られて窓の外の連続したトンネル灯をぼうっと見ながら帰宅している時ふと、家に帰るのってこんなに楽しみだったっけ、って。360度まるごと全部、外の世界だと気がつく。