絶対的おじさん
(7月6日)
いつか来るものだと思っているもののひとつに死があって、僕は確実にいつか死ぬのだが、いつか死ぬということについては納得したつもりでいたし、海で溺れてしまった時や、車で事故を起こした時に、そして身近な人がたしかにはっきりと死んだ時に、僕は死ぬというものがどういうものか、ありありと想像できるくらいに理解したのだけれど、死ぬのは今ではないと考えており、死のリアリティーは僕が発狂しない程度の距離にあって、それはまだ脅威ではなかった、考える時間を充分に割くだけの価値がある事柄であると思われた死は、いつもある種の覚悟を与えてくれるし、時には癒しにもなり得るのではあるが、僕の考えが及ぶ範囲の、想像上の死は、あるいは行動規範としてのプラクティカルな死は、なんとなく甘やかな幻想だったんじゃないかとも思われ、というのも、死以前に現在生きている僕には無数の障害・問題があり、そういった現実を死で覆い隠すことによって、僕は現実から目を背けていたのではないか、と考えたのは、とナーバスになったのは、明日僕のお誕生日おめでとうますだからで、おめでとうますの前日の今日、いま、ついさっき、存命中のお母さん様からメッセージが来て「自分の人生……悔いのないように……」と、実にすこぶる丁寧な三点リーダつきの雰囲気のあるしおれたメッセージが、やけに人の心をしおしおにさすメッセージが届いたからで、ぼかぁそれを見、そして「うっ暗い!」と思ったのだが、ウックライ状態になりつつもお母さん様のおっしゃる言葉の意味が鋭いレイピアの閃光となりて我が心の臓を貫き通し、そうかぼかぁ自分の人生、悔いのないように生きねばならんかったのだ、すっかり忘れていたけど! と目が覚醒し、覚醒ついでに現実を直視し、そこではたと気が付いたことがひとつある。それは驚くべき事実である。本当にびっくりしたんだ僕は。そして大いに戸惑っている。
僕は明日、おじさんになるのである。
僕はきちんと、しっかりと、骨の髄までおじさんになる。死以前におじさんがやってくるということを、僕は全然考えていなかった。若いままだと考えていたわけではないけれど、だからといっておじさんになるのだとも思っていなかった。ある程度の年齢になった時、僕のセルフイメージはたしかにおじさんに近づいていたし、時には冗談のようにおじさんぶることもあった。けれど心の中ではおじさんらしくない自分を、本当におじさんだとは思っていなかったのだと思う。目じりにしわができることがあるなとか、白髪が増えてきたなとか、そういうことは考えるが、だからといって自己像が一瞬でおじさんに変身してしまうことはなかった。そして僕の周りの世間も、僕がおじさんになることを良しとしなかった。僕がおじさんぶることを肯定する人間は、今もほとんどいない。それはおそらく周りの人間が「おじさん」というものを何か忌まわしいことのように考えているからだと思うし、おじさんと呼ぶことを失礼なことだと考えているからだろうと思う。僕はたしかにおじさんになるのだし、まったく見知らぬ他者からすれば、まごうかたなき真のおじさんではあると思うのだが、僕はそれでも、僕よりおじさんがいる会社で、あるいは僕と同じようにおじさんになっていく友人たちのなかで、おじさんらしさを控えながら生きていく。おじさんであることをどこかに秘めながら、僕より若い人と話すときは若い人になり、僕よりおじさんと話すときにはおじさんになり、不可解なバランスを保って生きていく。おじさんか、おじさん以外かは、時と場所によってフレキシブルに変動する。そういう意味では、おじさん性は相対的なものなのかもしれない。けれど僕の主観的価値観は、明日僕がたしかにおじさんになるのだと告げている。むしろ、おじさん性を相対的なものだととらえ続けている限り、僕は本当のおじさんにはなることができないと考えている。誰がなんと言おうと、僕は明日、おじさんになりたいのだ。もし明日おじさんになるチャンスを逃したら、僕はおじさんになれないかもしれない。僕は、僕の中におじさん姓を定着させることができないまま歳をとることに、ある種の不安をいだいている。僕は僕がおじさんであるという自覚を持つべきなのだ。僕の近くで暮らす人々は、僕のおじさん性を永遠に相対化し続けると思う。40歳の人は、僕を若造だと言うだろう。彼が41歳になっても、年齢差は永遠に埋まらないのだから、その人達から観測した僕はいつまでも若造で、アキレスと亀のように、僕は永遠におじさんになり損ねる。そして気が付いた時には、僕はおじさん期を逃し続けたままずっとおじいさんに近づいていて、ある時突然、浦島太郎さんのような気持ちを味わうに違いない。
僕がおじさんかどうかは、僕以外の誰かの評価をあてにしている限り、揺らぎ続ける。
僕は自分自身の力でおじさんになることを決め、そしておじさんを実行しなければならない。おじさんになるためには、それ以外の方法がない。
(7月7日)
僕はおじさんになった。でもおじさんを実行することはとても難しいことに気が付いた。僕はおじさんになったし、自称おじさんの振る舞いをすることもできる。立ち上がる時に「どっこいしょ」と言うとか、隙あらば親父ギャグを放つとか、腹巻をするとか、そういう当たり障りのない小手先のおじさんを披露することは容易だ。しかしそんなことをしても僕はファッションおじさんのままなのだ。僕は僕のおじさん性をまだ心から信じることができていない。おじさんの初心者としてこれからいろいろなことを学んでいかなければならないと思ってはいるけれど、おじさんについて考えているうちに、だんだんおじさんのことがどうでもよくなって来てもいる。僕はたしかに自分でおじさんになることを決め、おじさんになった。まだ下手だけれど、たしかにあるステージに到達した。それはひとまずよいことだった。おじさんになれてよかった。けれど実際におじさんになってみると、おじさんが僕の人生に何か劇的な変化を与えるかというとそんなことはなかった。60歳になっても気持ちは若いまま! などという言葉を見るとなんだか嫌な気持ちになることがある僕としては、これからどんどん枯れていくことを望んではいるけれども、望むと望まざるとにかかわらず、死以前に、おじさん以前に、僕は僕なのだものな。