一日


 給料日を過ぎていた。
 軽い気持ちで銀行に向かいATMを操作して時間と体力と気力とを引き換えに手に入れた小銭を機械にお願いして財布にしまいながら、財布Bと財布Cに振り分けるべき金額を計算して昼飯には何を食べようか一生懸命考えなければ食べたい物も特に思いつかないくらいには飽食の時代に生きていて今日は、ご飯を食べるのはやめようと思う。財布にお札がたくさん入っていると誰かに褒められたような錯覚を感じて、よく考えると僕には今本当に欲しい物が別に無かったから、欲しい物が別になくても全然大丈夫そうな馬に会いに行くことにしてしまう。

 昨年ぶりに出会った朝の馬は、柵の太い木の棒の狭間から馬顔をひょっこり出し、昨年と同じように薄紫色の長い舌をベロベロと振り回していて正体がよくわからなかった。公園は井戸の底みたいに冷えていて空は青く晴れていた。作業服を来た飼育員のお兄さんがバケツに干し草を詰めてあちこち移動していて、インコの檻の向こうではテニスプレイヤー達がゆっくりと球を打ち返しながら切り忘れたマイクの向こうから聞こえてくる放送委員の雑談みたいに遠い音で何か話していた。
 馬に触れようとすると馬は首を引っ込める。馬は顔を触られるのがおそらく好きではなく嫌いなのだけれど、柵の隙間に握りこぶしを差し込んで(パーにすると、動物はつい噛みたくなってしまうのだと昔、マンガ本で学んだので)、馬が寄ってくるのを待っていると「仕方ないなあ」という顔で馬が寄ってきて握りこぶしを自らの鼻穴にそっとあてがって鼻をぶるぶる震わせている。もちろん手には鼻水がついて、馬の鼻息が吹くたびに鼻水が冷たい。徐々に手を開いて長い鼻を指先でそっと撫でると、最初は我慢していた馬もやはり嫌だったみたいで首を引っ込めてそっぽを向いた。父親と四歳くらいの女児が「馬だ」「馬」と呟きながら背後を通過する時、僕もすっかり動物の一員になったような気がした。馬を触ろうとする動物である。少しだけれど馬には触れたし、今年の挨拶も済んだから蛇口から出てくる冷水で手を洗っていると唇がピンク色のヤギが子供動物園の入口からこちらをじっと観察している。

 電車を乗り継いで永田町に向かうと、整然とした町並みが都会だった。国会議事堂の前には警官隊が4,5人ぼうっと立っていて、多くが老人だった。テレビを見ても老人ばかりで、アイドルないしミュージシャン達だけがとても若い。10年後にはもっと老人だらけになるのだろう。なんて腰の痛い社会だろうか。どんどん分別くさくなる。電車の床に座り込む若者が駆逐され、暴力が駆逐され、煙草が駆逐され、あらゆるリテラシーが強化され、マナーを守ってお年寄りに優しくしましょう。日本にはロボットが本当に必要になるのかもしれない。名探偵おじいさん。怪盗おばあさん。少年漫画の時代が終わって老人漫画の時代が来て、保養施設の僕たちはテレビに向かってみんなでコントローラーを握ってマリオカートとかやっている。
 東京高等裁判所の前には何故かカメラマンが二人、座り込んでいた。テレビ局の腕章をつけて何かを待っている。その奥、正面入口の前には更に人だかりが出来ていて、今にも「勝訴」と書いた紙を持った誰かが現れるのではないかと思ったけれど、野次馬をする元気も無かったのでささっと中に入ろうとすると行列が出来ている。保安検査場から伸びる列に混ざって意識をVoidだかNullだかにさせてぼうふらしていると背後の識者が「どうやら生活保護関係の何かであれらしい」と彼の知人に向かって提供していた。携帯電話を使用してニュースサイトにアクセスして風の噂の確度を高めようと画策したけれどネットニュースからは根拠が得られず、その代わりに芸能ニュース、政治、経済、そういうニュースに自分はあまり興味が持てないんだということをやっと理解した。保安検査場を無事に通り抜けた後は裁判の予定表(タッチパネル)をめくりエレベーターで5階に移動して待合室でひとりだった。法廷の奥の待合室は、本当にとてもとてもとても静かで世界の終わりみたいだ。それは本当に待合室だった。
 開廷時間の5分前に法廷に入り傍聴席でメモ帳にメモを取りながら、僕は人間のことがもっと知りたかった。もっと人の事を赦したかった、傲慢にも。もっと僕のことを許したかった、楽だから。法廷を出て地下の食堂で550円のカツカレーを食べる。病院の食堂、あるいは図書館の食堂、スキー場のヒュッテの食堂などの施設には必ずカレーがあるけれど、あれは一体何故なのだろう、大体同じ味がするあの甘いカレーが好きだし、食べてしまう。今日は食べないと考えたはずなのに、カツカレーは泣きながら食べた方が美味しいと思った。泣く必要が特に無かったので涙は出なかったけれど、人生には色々なことが起きるもので、そのことは日常の中で忘れてしまう、愚かにも。あるいは賢明にも。

 ご飯を食べた後前科12犯の老人を見た。ここでも老人だ。そして僕は、おそらく他人をコンテンツとして見ているな、とその時悟った。「僕はエンタメではない」と思っているけれど「他人はコンテンツ」として見てしまう。その視点を回避するためには他人が「私はエンタメではない」と表明する必要がある。もしその意思を表明しないうちに僕が他人をエンタメだと思わないようにするなら僕はただの狂人である。僕は僕がエンタメではないと思っているし、それをブログの中で表明したけれど、僕は他者が僕のことをエンタメとして見ないようになるとは思っていない。僕はエンタメではない、かもしれないけれど、僕は他者から見れば何らかのコンテンツなのだ。面白なのか悲しいなのか、どう見られているのかはわからないけれどそれは見てもいいものとしてコンテンツだった。ということがただ分かった。
 おじいさんには執行猶予がついた。執行猶予の期間内犯罪を犯さなければ懲役は無くなる。人生に期限がついていることは行動を明確化するかもしれないと考えた。このブログは一年続けることにしていたから、一年でぴったりやめようと思った。執行猶予だ。悪いことは何もしていないんだけれど、基本的に僕は僕のことが許せない。だから悔い改めてほしい。ただちに判決を言い渡します。被告は塵芥じみた文章を書き散らかし、自らのソウルジェムを濁らせた罪によって、罪ではないんですけれども、幸福に過ごすことを命じます。

 裁判所を出ると人だかりは露と消え、空は紫色になっていた。永田町から神保町まで皇居の周囲をたどって歩く。皇居ランナーがたくさん走っていた。路肩の草むらでは鳩と雀が寄り集まって地面をつついている。そういえば馬も枯れ葉をばりばり食べていた。僕も動物だったらよかった。つくしんぼうやふきのとうなどを片端からもぎとって食べられたらワイルドだし、花の蜜を吸ってもワイルドだ。昔は山に生えていたアケビの木に猿のようにのぼって実をとって食べたり、木苺のつぶつぶを食べたりしたものだけれど今はもう恐ろしくてできない。でもタラの芽を天ぷらにするととても美味しい。
 靖国神社の境内にはかなり大きな石灯籠のようなものがあって、鳥居も巨人のサイズだった。参道を歩いて街に出ると空気がもう親しげになる。本屋がたくさんあるのを目にするだけで心があたたまる。あたたまるついでにロイヤルミルクティーをしようと思いドトールをたずねる。ドトールロイヤルミルクティーは素晴らしく美味しい。色々な場所で飲んだロイヤルミルクティーだけれどどう考えてもドトールのものが美味である。Lサイズを持って席に座りサン=テグジュペリの人間の大地の続きを読んだ。この本は昨年から読み続けているけれどまだ終わらない。2時間で読み終わる本もあれば三ヶ月かかる本もある。人間の大地はあと2日くらいで読み終わりそうだった。良い本だ。とても良い本。特にギヨメについて語るシーンは冒険小説のようでわくわくしてくる。詩的な表現もサンテクスらしくてうれしく、夢見がちで星空のようだ。名言も多い。1939年に初版が発行されているから、約80年前の本だ。飛行機を操縦して窓から地球を見たらどんなに素晴らしいだろうか。生まれ変わるとしたら渡り鳥がいいかもしれない。白鳥になったら川底に頭を突っ込んでワイルドだ。水鳥が水中深くに顔を入れるとお尻だけ水面から飛び出して変なポーズになることがあるけれど、あれは花の蕾みたいで愛らしく、また滑稽でもあり、子供の心が踊ります。

 紅茶を飲んで帰宅してから怖い映画をひとつ見た。アンソロジーになっていて、明確なオチのない話もたくさんあった。怖い映画なので幽霊みたいな人がまあまあ出てくるのだけれど、幽霊については不思議な点がものすごくたくさんある。まず幽霊はなぜ女性が多いのだろうか。少女だったり大人の女性だったりするけれど、大抵青白くて髪が長くて痩せている女性が多い。白いワンピースみたいな服を着ていたら満点だけれど、だいたい毎回そういう格好をしている。力士の幽霊はいないのだろうか? 動物霊は、犬や猫なら案外あるのかもしれないけれど、ゾウやキリンだって幽霊になってもおかしくはないはずだ。幽霊は服を着ているけれど、ではその服も幽霊なのだろうか? だとしたら壊れたパソコンの幽霊などもあるのだろうか。眼鏡の幽霊に取り憑かれたら、眼鏡をかけていないのに眼鏡をかけているように見えるのだろうか。無生物が幽霊になるなら、概念はどうだろう。成長の幽霊とか面白いのではないだろうか。成長したつもりになるけど、本当は成長してなくて幽霊だったのだ、ということ。すごくとても怖いと思う。色々考えてしまう。

 映画を見終えてパソコンの前に座り、今日はいくら使ったのか気になって財布Aを見てみたら、1000円しか使っていなかった。ロイヤルミルクティー代とカツカレー代だった。ここだけの話なんだけれど僕は自分が天才なのではないかと思った。だいの大人が一日遊ぶのに1000円しかかからないというのはすごいことなんじゃないか。たったの1000円でこれだけ多彩な遊びができる大人はそういまいて。やったー! と思った。
 良い気分になったのでyoutube音楽を聞いた。詳細は分からないけれど一瞬でこの人はすごいなあと触知した。すごいパワーがある。僕は何も知らないんだなあ。うううん、何でも知らないのではなく、知らないことだけ知らないんだ。