退屈について

 いつもとは違う場所で仕事をすることになった本日は、退屈という気持ちを得る貴重な一日となり、退屈だなあと感じたのは2年ぶりくらいで、平素の生活において暇だとか退屈だとか全く全然感じておらずむしろ一日が35時間だったらいいのだすけど、はっきりと記憶に残っている甚大な退屈は小学生か中学生の頃の授業中のことで、枯れ葉の舞い散る秋の日の、教室の一席で時計の針ばかり眺めていた、あの秒針すらない時計の一分は間違いなく三分はあった。先生のお話は脳に届く前に失速し床に墜落し、稚児らから放出されるネムタミンが教室中に充満して空気はひどく薄くあくびばかり出力された。一刻も早く家に帰ってゲームをしなければ胸の奥の辺りで急速に膨らみかけている風船爆弾が爆発して体が四散するような感覚に不安を覚えもする、という気持ちを今日こそは思い出し、退屈ってこんな気持ちだったなと日々の根幹をわずかながら揺るがす。

 日々の生活の中に退屈を感じなかったのはいつでもやることがあったからだし、特別に重要度の高くないことしかタスクに入っていない時にはやりたいことが繰り上がって一番になるから、人間には手が二本しかなく、また僕はひとりしかおらないということが、つまりどんなに己のマルチタスク能力が高かっても、結局のところいっぺんにひとつのことしか人間は出来ないんだよなあと思う、いくら高かっても、低かっても。やらなければならないことの次にはやりたいことをやってもよく、やりたいことの数は砂浜の砂粒の数だけあり、となると退屈を感じることは無いように思っていたけれど、机上の空論であった。前提が間違っていた。退屈というのはつまるところ、行動を規制されながら行動を強制されていない時に起こる、と気づいた。

 先生の話を聞いているだけの時、板書をノートに写すことが許されていて、話を聞くことや考えることが許されていて、十分に一回先生が見回ってノートにちゃんと書き写しているか確認するということがない時、何もしないことも許されている。わずかながら自由があるような気がしている。そのちょっとした自由のせいで退屈という気持ちが認識されるんだなあと考えた。その上でぼうっとすることも許されていない状況では退屈が随分と苦痛で、そういう気持ちを忘れたらいけないなあと思った。パソコンの前で仕事をしているフリをしてマウスをコンスタントにかちかちしているだけの時間は気を抜くと少し笑ってしまいそうになった。

 普段とは違う環境から解放されると、やっぱりどこかに歩いていきたくなって、神社の参道や夜の町を歩き回って、そこで思いっきり好きなだけ何も感じないということができるのは本当によいことです。電車の中で音楽も聞かず文章も読まず窓の外をずっと眺めているとき、無駄な時間なんて一秒もなかった。