秋の風を待ちます

 ペンギンあたりに「あついねえ」と話しかけたら、人間あたりに「なつだもんねえ」と言うだろう。

 暑さも寒さも体力を奪ってゆき、ひいてはやる気を奪ってゆくけれども、暑いときには暑いときのよいことがあったし、寒いときには寒いときのよいことがあったから、結局のところ、暑かろうが寒かろうが、また尋常フラットだろうが、よいこととわるいことの平均値はこれぽちも上下しないのではないか、永遠にエアコンの効いた適切な温度の部屋の中にいたって、ひまわりは咲かないし、雪だるまはできないし、そしたらもう永遠の春の王国で、でっかいちょうちょでも追っかけて、お花畑で暁を覚えずというのも、湯温の低い温泉のようにオダヤカでホンノリよいことであろう。

 残暑が続いているから、残暑から逃れようとすることは道理であり、避暑地や冷蔵庫の中に安寧に見出すのは、これは肉体的に快であるから、人々のフラットになろうとする性向をよくあらわしていると思う。また避暑地といえばおそらく静寂であるから、それは優雅とも言えるかもしれないし、喧騒から逃れるということはすていたすでもあるから、それを持っている歴々はやはり避暑るものであろう。と、これはお財布の軽い・かつ無知蒙昧な僕の意明示に過ぎないけれども、都会的に洗練されたソフィスケイトされた民ならば、それはコンビニエンスストアでも、カッフェエでも、あるいはライブラリでもデータセンターでも、涼しければ避暑といえなくもない、という迂遠な気持ちにWABIかつSABIを感じてみるのも現代人風のエモーションなんじゃない。

 残暑に追いすがることもまた道理である気もして、残暑の暑を追うことは、つまり夏に魂を預けることで、夏をもって至高とする一派が追い求めるは遠いparadiseであり、ハレの気配であり、生き物の発するパッションであろう。夏の一派は渡り鳥のように夏を追い求め、夏と共に移動を繰り返す。考えてみればこの時代、飛行機に乗ればいつだって夏の只中に飛び込むことができる。南国の島にゆけばそこは常夏であるから、夏の一派が夏を夏することに神がかりはいらない。肉体は冬にあれど心は常夏という精神的炎天下を究めた人々は、真冬でも案外Tシャツで現れ、人々の度肝を抜くことがあるけれど、人の幸福が精神的な現象である以上、夏もまた精神的な現象なのかもしれない。

 ここまで夏に対して、あるいは残暑に対して二つのアティチュードを提示したけれど、逃げるか飛び込むか、というだけではなく人それぞれの哲学に沿った過ごし方をすればよいのは自明のことで、見ているだけでもよいのだし、残暑は寝ていますというのもなんだかフンワリしていてよかろうと思う。残暑はこねるものですとか、吊るすものでげすとか、のめして干してたたんでおきますとか、そういうことがあってもおかしくないし、僕の個人的な意見としては残暑は、本のしおりにしておくくらいがちょうどよいのではないかと思案しているところである。

 たとえばこの夏、僕はずっとおんなじ本を読んでいて、この間読み終わったところだけれど、たとえばいつかの冬に本を開いて、そういえばこの本は夏に読んでいたなあ、などと思って、行間紙背からにじみ出る蝉の声などを、白いもくもくの雲などを、日陰に眠っている毛むくじゃらの犬などを脳裏に召喚し――とここまで書いて、どうやら自分があべこべなことを書いていることに気がついたのであるが、どうやら僕は夏を本のしおりにしたのではなく、本を夏のしおりにしてしまったようだった。波間に漂う異国のペットボトルのように夏に翻弄されている僕はまだこの状況を俯瞰することができないのだから、それはそれでよいと覚悟を決めて、スイカを食べず、スイカバーなどをしこたま食べ、そうしてだんだん冷たくなって、秋の風を待ちます。

 

 

今週のお題「残暑を乗り切る」