くたびれた犬小屋の
体の具合がくたびれた犬小屋のような感じの休日。
ふらふらと電車に乗って少し眠った。
銀座の近くの駅で降りて面白い絵を見た。
この世のものとは思われないものばかり描いた絵で、図録を買った。
レジの係をしていた方が「作家さんにサインを貰ってください、図録に」と言う。
僕は犬小屋に敷かれたもともとはピンク色だったタオルケットみたいな感じの体調だったから、
「はい」と言ったまま何故か会場を出てしまった。
背中に係の人の視線を感じていたけれど仕方ないと思った。
犬が主人と散歩に出たまま帰って来ないのだ。
人が持つ祭壇とサンクチュアリーの二つのうち、僕にとっての後者はリビングのごろ寝マットレスであり、つまりそれが僕の犬小屋なのだと思った。
今日は犬小屋についてずっと考えていた。
明け暮れに悠々眠る老いた犬
歳ふりた犬小屋の影もさびしや
朝、目覚めた時、突然犬の川柳みたいなものが頭に落っこちてきて、それからずっと犬小屋の気分だった。中華料理屋の隣に住んでいる白いけむくじゃらの犬のことを思い浮かべている。
サンクチュアリーからの眺めはいつもよいから、買ってきた図録を開きながら想像の中の老いた犬と同じように僕も悠々眠る。そうして陽が長くなった夏のひかりが窓の外にぼんやりと留まっていることに、夏休みが終わる時の不安と期待と、やはりある。
絵をたくさん見よう、と考えて本棚から画集を引っ張り出してきて即席の祭壇を作る。
サンクチュアリーの上に建設された祭壇というのはきっとおそらくいくつになっても心弾むのだろうな。そういうことがもっと知りたい、と僕は思うようになる。
たくさんの絵が及ぼす効果が、昔とは大きく違っている。
人や景色や怪物や機械やゾンビや、そういったものを眺めるとき僕は落ち着くようになる。
綺麗なものをたくさん見よう、というとき人は、こういう効果を尋常に受けるべきで、それを期待して言うのかも知れないと思ったほどだ。
一日絵を見て過ごすこと、たまにうたた寝すること。
とてもよいこと。