あぐねリリース

 なんかのサイレンが町を満たす東京。その朝の光は故郷の窓から見た光と同じこともある。
 モンゴルの草原の空と、荒川の河川敷の空は、実は繋がっているんだなと当たり前のことを当たり前のように感じられてうれしい。
 僕が一番好きな俳句は種田山頭火さんの"お寺の竹の子竹になつた"という作品だ。
 先日はコンクリートの町を練り歩く機会があったので、外圧に押し出されるようにして歌っていたのはクロマニヨンズのギリギリガガンガンのサビパートで、歌詞は次のようなものである。"ギリギリガガンガン ギリギリガガンガン 今日は最高 今日は最高の気分だ"
 種田山頭火さんと甲本ヒロトさんの詩には大好きな部分がある。
 あぐねていた些末な気持ちがいつまで経ってもまとまらない。
 ネットは川で、言葉は魚。どこに向かって行くかは不明である。

 

にわとりサンバ

 食べ物にあまり興味のなかった僕が人生で一番おいしいと思ったにくを、誰かに食べさすたいと思ったのでゴーレム君に声をかけると、成り行きでSさんとジェントル先輩を誘うことになり、四人で焼肉屋さんを予約したのであるが、Sさんが急用でキャンセルしたいと腹痛をこらえるような表情で申したので、気の毒だったけれど三人で予約し直します、とゴーレム君がアレンジを加えて雨の降りしきる渋谷のスクランブル交差点横のTSUTAYAの前の有象無象の中に、我々三人が立ち尽くしている時、信号が青に変わり群衆が四方八方に入り乱れる。
 ししみさんは酒豪だから、あるいは酒乱だから、鬼だから、とジェントル先輩がふふふと笑って僕とゴーレム君を地下へ誘い、隠れ家というにはあまりにおしゃれなバーだかパブだか、要するに酒をごんごん出してくる場所に押し込んで丸っこくて妙に小さなテーブルを囲むようにして三人で椅子に座り、話す言葉がなにもない。話すべき言葉はとうに話し終えており、仕事の話は味気なく、プライベートを話すにはこのパーティーの親密度が足りない。加えてゴーレム君はジェントル先輩に対して人見知っており、ジェントル先輩は大人理論によって人に会話を無理強いしない。となると二人とそこそこ仲がよいと自負している僕が話題などをごんごん提出してお二人を楽しませて仲良くなってもらわねばならないという義務感にも似たお節介がパフォーマンスを発揮するのだけれど、そもそも僕は日頃から「草原のベッドで寝たい」などと考えているだけの天気の傀儡であるから話題などは特にあらない。すると何が起こるかというと三人の間にひたすら天使のさえずりが轟くだけなのである。ウエイターさんがやってきてオレンジジュースとオレンジジュースとジントニックを置いて去る。僕だけ酒であるから、この最初のひとくちのリアクションできっと全てが上手く回りだすに違いないと思ってぐびりとやってからくーっ、うめえうめえ! ポンヌポンヌ! などとやってみたけれどジェントル先輩はによによと笑うばかりでゴーレム君に至っては手遊びを始めていた。僕は無理をするのはよくないことだなと思って赤面した顔をおしぼりで冷やしながら草原のベッドに思いを馳せた。
 そういうことがあってこの度のパーティーはきっと失敗するに違いないと思った。

 しかし人生というのは塞翁さんのお馬さんのようなことで、元はと言えば食べ物にあまり興味のなかった僕が人生で一番おいしいと思ったにくを、誰かに食べさすたいと思ったのでゴーレム君およびジェントル先輩を誘ったんだから、おいしい肉を食べさすことができればそれでよかったのだから、予約した店の前で三人でうろうろしたり、ガラスから中を覗き込んだりして大層不審者ぶりを発揮したあとおとなしく店に入って椅子に座っていると串刺しにしたでっけぇ肉を外国の人がナイフでぶすりとやってずばっと切られた肉片が白い皿の上に綺麗に広がり挨拶もせぬまま三人でフォークで滅多刺しにしてそれを羅刹のように口に運ぶのだ。噛みしめるたびにうまい。噛みしめるほどに美味である。こんなにうまいにくは他にはないに違いないと僕は思うのだけれど思いを放つような真似は誰もしない。世界最高のうまいにくを前に我々三人はやはり固く口を結んでもぐもぐやっていた。誰も不本意をしない世界がほんのわずかに形成され始めた時、ステージでギターを爪弾いていた赤いシャツのボサノヴァ歌手の方がうらららと叫んでオーレイみたいなことを絶叫しはじめた。すると今までしめやかなおしゃれムードだった店内がにわかに活気づき、ミラーボールが光をごんごん反射してディスコティックになり、歌手の手拍子に合わしてお客がハンズをクラップし始めた。サンバです! サンバです! とゴーレム君が顔をこわばらせて肉のことも忘れて、安いステーキのように身を固くした。ジェントル先輩はまいったなこれはという顔をしてお義理の手拍子をしていた。僕はわあショーだなんかのショーだと思って頭の上でぱんぱんぱんぱん、ぱんぱんぱんぱん、シンバルを鳴らすお猿さんの人形のように元気いっぱいに拍手をした。すると店の奥から赤い羽を体中にあしらった筋肉質の女性が手をひらひらさせながらホーゥと叫んで現れた。そのすぐ後ろには金色の羽をあしらった筋肉質の女性が腰をどぅるどぅる回転させながらホーゥと叫んで現れた。二人の女性は店内を竜巻のようにぐるぐると踊りながら回り、各テーブルの横にくるとお客さんに向かってダンスを見せつける。私のダンスを一番近くで見ろ。そんなことは決して言わないけれども踊りこそがそれを表現しているのだ。もちろん僕たち三人はみんな目をそらした。それから恐ろしいことが起きた。赤い女性が隣のテーブルのお客さんの手をとってステージに連れていったのだ。金色の女性も各テーブルから活きの良さそうな人物を連れてステージに上った。そこで人々は練習したこともないサンバを見様見真似でぶるぶる踊り狂うという趣向であった。ぶるぶると世界は振動をはじめていた。ボサノヴァ歌手の奏でるギターは激しくかき鳴らされ大地の心臓みたいなビートが店内を揺らしミラーボールは目眩を続けている。ステージに上げられてしまった眼鏡の痩せた男性はすごく真面目な顔でダンサーのパフォーマンスを一瞬で習得し生真面目にサンバを踊っていてそれが妙に面白くぱんぱんぱんぱん、僕の拍手をあなたに捧げる眼鏡の方にと思っていたら魔手は我々のテーブルにも伸びゴーレムくんとジェントル先輩は腕をつかまれた。ゴーレム君は空いた手を僕に伸ばし、口をぱくぱくさせていた。周囲の音がうるさくて何を言っているのかよくわからなかったけれど、たぶん助けてくださいししみさんみたいなことを言っていたんだと思う。聞こえなかったからよくわからないけどもしかしたら子供のころザリガニ釣りしましたよね? とまったく文脈に関係にないことを言っていた可能性も微粒子レベルで存在している。ゴーレムくんとジェントル先輩はダンサーに連れ去られ、結局サンバを踊っていた。踊る二人は輝いていた。ダンスは、それは未熟ではあったけれど、にこやかであった。技術はいらない。そんなものはぜんぜん必要ではない。ほんとうに大事なのは、楽しむ心ではないのか。
 サンバタイムが終わって二人は席に戻ってきた。ゴーレムくんはテーブルの一点をみつめて動かなくなり、ジェントル先輩は「俺は踊っている間、ししみを殺そうと思っていたよ」とにこやかに言った。このパーティーは成功だったのだと思った。何が起こるかわからないのだなと思った。つまらないかもしれないと思うことでも面白いことはあるし、その逆もあるから全部大体予想通りになんかならないから予想通りにならないまんまがよい。
 ゴーレム君は朝が早いので先に帰宅し、ジェントル先輩は薄暗いバーに僕を連れて行ってタピオカミルクティーを飲んだ。僕はマティーニを飲んでオリーブを余した。僕とジェントル先輩の間にほとんど会話は無かった。彼と何回かご飯を食べた時、彼の言った言葉が僕は好きでそれは僕が前からなんとなく思っていたことだったから、たぶんそういうのを馬が合うとか言うのだろうと少し思うのだ。
「話さない関係もあるよね」と。それはロマンチックな意味ではなくて、絆でも共有でも同調でもない寛容さが顔を出す以前の、すごくシンプルな相互理解のお話だ。にわとりは空を飛ばないよねって、チキンとかかって自虐がややこしい。そして重要なのは一度形成された相互理解は不変ではないということで、人の心はミラーボールのようにごんごん変わって行くので、もうブッダやパンクスが言うようにNO FUTUREでNO PASTで生きているなう。

 

老人

 東の空に巻きあがる入道雲は大切なものを隠しているように見える。近づいてみれば色も形もないはずの水蒸気が硬く凝集して要塞のようだ。あの白い壁の中には何か大切なものがある予感がする。記憶の遥か彼方、もう霞んで見えないくらい遠い日々の中で、僕はたしかに見たことがある。たくさんの記憶が渦を巻いて硬く凝集している。思い出したいことは何一つ思い出せないのに、どうにもならないことだけは意識の表層に浮かび上がってくる。思うようにならないものだ。涼やかな風が吹いていた。風は草と土の匂いがした。まるぼうずの丘の上は風の音ばかり聞こえていた。時折、頭上にふるふると甲高い声で鳴く鳥がいた。大きな翼を羽ばたかせもせず、青空の一点を中心に、綺麗な円を描いてゆっくりと旋回している。鳥の影はぼんやりと輪郭を失い、いずれ空に吸い込まれて見えなくなる。いつもそういうことをしている鳥だ。いつも僕が丘の上に座っているように、その鳥はいつも空に吸い込まれていく。陽の高いうちは鳥を何度か見かけるけれど、たまにしか見かけないものもある。それは丘の麓のずっと向こうから歩いてくる。ぎらぎら輝く緑色の草原を、こちらに向かって一直線に進んでくる。右手にとがった木の枝をぶら下げて、つばのついた緑色の帽子をかぶって、毛むくじゃらの白い犬を連れている少年だ。陽に焼けた肌は浅黒く、伸びた真っ黒い髪が鈍い光を放っている。少年は僕の背中側に回ると、しばらくそこで何かしている。白い犬の息遣いが右や左に移動する。しばらく経つと、椅子の足にかつんと木の枝が打ちつけられる。背後に立った少年が言う。
「今日は何を見た」つぶやくような、ひとり言のような、低い声だ。
「空と、鳥と、草原を見た」
 少年は僕の前に回り込み、まるで悪霊にとり憑かれたように激しく枝を振り回した。その姿を見た白い犬は興奮して吠えた。気が済むと、少年と犬は再び僕の背後に回り込む。それから木の枝が椅子の足を小突く。
「今日は何を見た」
「変な子供」
 すると少年は鳥のように甲高い声で笑った。毛むくじゃらの犬を連れて、飛び跳ねながら草原を駆けていく。いつもそういうことをしている少年と犬だ。名前も知らない少年と犬だ。少年はいずれ、この場所には近寄らなくなるだろう。そして忘れるだろう。
 たくさんのことを忘れている。大事なことも、大事ではないことも、すべて入道雲の向こう側にある。手に入れることができない、けれど確かにあると分かる場所にある僕とは全く関係のない大切なものは、遠い昔に失った、かつては価値のあった感情と記憶の凝集した、色も形もない煙だ。
 太陽が地平線に沈み、濃紺の空に星がまたたき始めた頃、椅子を畳んで家に帰る。パンを食べる。ベッドに横になり、ランプの灯りで本を読む。夜にしか鳴かない鳥が鳴いて、いつの間にか眠っている。

 

今週のお題「理想の老後」

 

本について

 定時の1時間前にほとんどの仕事が終わり、業務用モニタの前に座って高円寺について考えていると、隣の席にモヒカン先輩が音もなく座り、あざやかにマウスを操作してインターネットに接続し、残時間1hをネットサーフィンに費やすつもりであることを示唆した。
「読もうと思ってさ、普通の本を」と彼はつぶやく。
 普通の本という言葉の意味が分からず、その定義を問うべきか迷ってしまう。人の放つ言葉を解釈するのはいつでも難解だ。頭の中の幾何学模様を伸ばしたり縮めたりしているうちに、彼は新しい言葉をそっと放り出す。
「あれはテレビで見たんだよ、山に行った三人が恋? 恋をしてさ、ひとりが死んじゃって、事故かと思ってたら山に登る前にはちみつ? はちみつを飲ませてて、それが体に悪くてあとから効いてきたっていう話で、すごいよね。ねえどうなんだろうね、それは罪になるの?」
 事実を整理したい、と強く考える。モヒカン先輩が友人だとしたら、微に入り細を穿ち質問をしたい。けれどモヒカン先輩はいわゆる上司で、僕はただの部下であり、ここは本の内容を精査する場ではなく、終業前のしずかなボーナス・ステージだった。それはシリーズものですか? それとも一本で完結のドラマですか? と、当たり障りのない質問をしてしまう。
 彼は質問に対して曖昧にうなずきつつ、インターネットを検索して件の作品名を調べ上げ、教えてくれる。有名なミステリー作家の小説だった。その作家の本は3冊読んだことがあるけれど、モヒカン先輩が教えてくれたお話は知らなかった。
「なんかいい本ないかなあ」彼は言葉を宙に漂わせる。
 つまり、こういうことだ。おそらくモヒカン先輩にとって普通の本とは小説のことで、おそらく彼はミステリー作品を探していて、おそらく僕に何かないかと聞いている。明確な言葉はひとつもなかったけれど、おそらくそうなのだ。そして僕はその質問にうまく答えることができない。他者におすすめの作品を語ることがとても苦手だし、ミステリーに詳しいわけでもないし、そもそも本について詳しいわけでもない。それでも何か答えを提示したいと考えたのは、見栄のためかもしれないし、彼が僕に与えた役割をまっとうしたいと考えたからかもしれない。
「い」さかこうたろうさんの本が面白いですよ、というのはとても妥当な答えではないだろうか、と考えて口に出した言葉は、彼の「山田なんだっけ」という言葉にかき消される。
リアル鬼ごっこの」と、突然明確な言葉を得て僕の脳は途端に活性化する。
山田悠介です」
 モニタには山田悠介さんの著作がずらりと表示され、「これは読んだ……これも読んだ……なんで俺、これ読んだんだろう……」彼の呟きが連なる。
 ならば東野圭吾さんだ、と見当をつけた。もはや推理ゲームだった。
 先程の有名作家さんの作品も映像化されていたし、山田さんの作品もたくさんメディアミックスされている。つまりそのような傾向の作品が彼は好きなのだ、と考える。伊坂さん宮部さん道尾さん、その辺だ。乙一さんではないし森さんでも綾辻さんでもない――と連想を続けているうち、急に心が静まりかえった。それは僕が話題に合わせてグルーピングした作家さん達であって、僕の中でしか意味をなさない地図だ。そんな風に、自分の中にイメージや体験を築き上げていくことも読書に含まれているのに、彼の好みを推測しただけの浅はかな答えを示して何になるのか。本を読むってもっと個人的で内部的な活動ではないのか。示すべきはモヒカン先輩が望んでいそうな答えではなく、僕が彼に読んで欲しい本ではないのか。それが僕自身の本当の答えではないのか。僕が彼に読んでほしいと思う本なら、決まっていた。
「ド」グラマグラっていう変な本があってですねと言いかけると彼は「そういえば芦田愛菜ちゃんの本知ってる?」と言いながら芦田愛菜さんの新刊、『まなの本棚』を検索し始めた。そしてすごく真剣な顔で言った。
「これ文章じゃなくて、まなちゃんの写真集だったらよかったのにね」
「そうですねまなちゃんはかわいいですからね」
 ドグラマグラって言わなくてほんとに良かった。

 同じ料理を囲む時、あるいは同じ映画を並んで見る時、同じチームでスポーツをする時、他者と時間を共有することは簡単だと思う。
 けれど本はひとりで読むものだから、本から受け取った本当のことを話すのはすごく難しいのだと思う。読書は人それぞれの人生が前提にある解釈をするから、だからこそ意見が分かれたりして、そこに意味があるのだけれど、その不一致を楽しいと思えない人と話をするのが難しいということでもある、のではないかなあと、ぼんやり考えています。