理想の冬の一日

理想の冬の一日

 

 会社から目的のない三連休を頂けることがあり、仕事の隙間時間等々、三連休をいかにして過ごすか計画を立てるのが好きなのだけれど、やはり時間があるのだから、時間がなければ実行が難しい・実行が面倒である行楽などを候補に上げることは多いのだけれど、海か山か、巨大商業施設かリゾオトホテルか、それとも未だ体験のしたことのないもずく拾いとか、偽紅葉制作合宿とか、そういうことをしてもいいんじゃないかとか、思考が堆積すればするほど目的と目的達成時のカタルシスの精度が上がっていく気がするのは幻想であって、考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる事を考えた方が面白く感じてくるのは、予定調和のゴオルなんて面白くないに決まっているからでした。

 昨日まで16歳だった。学校が終わってゲエムをしてベッドに入って眠ったら今日、2019年11月27日。過程は全て夢だったのではないか。脳は想像と記憶を区別しないから、現実は現在だけで、その他の時間は全てフィクションだったのかもしれないのでした。いきなり急に突然大人になっていて、これは大人の年齢になった方はみんな「あっ!」と思うらしいのだけれど、大人になっているらしいから大人しくしなきゃって僕も考えていたし、少しは大人しくなったんだろうけれど、これは僕は本当に思うんだけれど、歳をとったロックバンドがスロウな曲ばかり作り始めるとがっかりする。なんで変わってしまったのと思う。若林正恭さんのナナメの夕暮れを読み終わって、なんだか特にそんな事を考えてしまって、とてもよい本だった。変わることも強さで、変わらぬことも強さで、生きている人みんなすごいつよいということでひとつ、感想文は脇に寄せて、大人だけど、大人だからといって大人しくしていなければいけないわけではないんだなあと不意に思い至り、仕事場の喧騒――外線がリンリンと鳴り響く! プログラムがエラアのアラアトをがんがん鳴らしている! 先輩は頭を抱えてキイボオドを叩いて事務処理をしている! 新しい指令が上から降ってくる! 新しい資料を作るための資料を探さなきゃ!――の中で、手をぽんぽぽぽーんと打ってひとり、とても納得をしたのでした。

 理想の冬の一日は、旅行に行ったり、行楽、リゾオト、ジャズクラブ、おしゃれなバア、そういうものではない、と思った。それは現在進行形で、そういうものではない、という意味だった。理想の冬の一日に必要なのはまず、朝六時の藍色の空。

 何か大きな鳥の声がして(もしかしたら何かが爆発したのかもしれない)目を覚ました。カアテンのかかっていない窓からは、深い藍色の空が見えた。壁掛け時計は六時を示していて、だから布団の外に起こした上半身が、ひんやりとした空気に触れ、頭の真ん中がきりりと引き締まる感じがする。今日は三連休の初日だから眠っていてもいいのだ、と気がついて寝ぼけながら布団に入って目を閉じると、窓の外からやっぱり鳥の声がひとつ(あるいは爆発音が)聞こえた気がした。

 次に目を覚ますと朝の八時で、窓の外はすっかり晴れて明るい。そんな時には、鬱蒼としたデトロイト・テクノよりも、髭男dismを聴くと、朝の輪郭がはっきりとしてくるから、ステレオ・システムの再生ボタンを押して、うぉーおおおーと狂ったように歌いながら、電気ポットでお湯を沸かして、これは、紅茶を飲むのに使うお湯。マグカップから白い湯気がたつ。茶葉を蒸らす。そして何の美学もない砂糖を三杯も入れると、気品のある香りと優しい甘みの、得も言われぬハアモニイが、人生に染みついてるっぽい思考のねじ曲がったやつを消臭・殺菌する。清らかな朝、やりかけのゲエムを進めるためにプレイステエションの電源をつける。

 12時まで異世界をほっつき歩いたら、そろそろ現実に腹も減る。尊く晴れていることでもあるし、ここは何か、食べにゆきたいと思って手早くシャワアおよび着替えをしてポケッツに家ん鍵とスマアトフォンを突っ込み入れ、前髪を右にざっとしてワックスでさらっとさしたら、部屋の中を一度見回してみて、なんだか人の家にいるような気がする。

 自転車に乗って冬の、澄み渡った三ツ矢サイダアみたいに爽やかな空気の中を疾走し、町の西の方にあるバッティングセンタアに到着。500円分のバッティング・メダルを購入したのち、入り口のそばの、係の人がいる部屋の、受付の窓、まで行くと、ボンバアジャケッツを着て、有名球団の野球帽を被った係のおじいさんがやきいもを食べていて、おじいさんからカップラアメンとオロナミンCを買って、お箸をもらう。バッタアボックスに立っている半ズボンの少年と、黒いウインドブレイカアを着たおじさんのバッティングを、見学しながら麺をすすっている。少年は快音を響かせ、おじさんは頭をかいている。青いゴミ箱にゴミを捨てて、僕もバッタアボックスに立ち、バットを振るっていると、背後の金網ががしゃがしゃ慣らされ「ししみ、おはよう」と声をかけてくるのは元野球部の七十嵐で、彼とは時々、このバッティングセンタアで会うことがある。中学校の同級生と、バッティングセンタアで会うことは、気持ちがよいことだ。「見て、僕のすごいバッティングを」と僕は言い、すごく空振りをする。空振りをする。とても空振りをする。球に目が慣れ、縫い目まではっきり見えるようになり、飛んできた絶好球はど真ん中、空振りをする。僕はバッタアボックスを出る。粗末なパイプ椅子に座って、七十嵐と他愛ない話をする。デリック・メイジェフ・ミルズの話、それからうまい棒のめんたいこ味と納豆味の話だ。「じゃあ俺もそろそろ打つかな」と言って七十嵐は立ち上がる。彼に手を振って出口に向かって歩いていこうとすると「ああそうだ、ししみ今度、もずく拾いにいかないか」と背中に声をかけられる。驚いて振り返った時、七十嵐はもうスイングしていた。甲高い金属音がして、矢のように白球が飛んでいく。

 バッティングセンタアを出たら、町の東の温泉へと自転車を走らせる。長い並木道の木々は偽銀杏で、幻想的な偽黄色に染まっている。これは町の偽紅葉製作所が制作したもので、制作体験合宿に参加した者の作品も含まれている。偽銀杏の偽紅葉は、本物ではないけれど、その美しさは本物だった。枯れない花があったらいいな、と思った心優しき方が、きっと造花を創ったに違いないが、枯れたままの花があったらいいな、と思った寂しさの虜が、きっと偽紅葉を作り始めたに違いない。咲き誇るのが人生なら枯れて散るのもまた人生であるから、どちらの瞬間も同じくらい貴重でうつくしい。

 町外れの温泉にはあまりお客がおらない。受付のおばさんからタオルを貰って脱衣所でさっさと服を脱ぎ浴場の戸をがららと開けると、お湯の匂いがする。かけ湯をして体を洗って露天風呂に向かう。やはり温泉といえば露天である。いささか非合法的なことを書かせていただけるならば、露天風呂というのは合法的に屋外で全裸になれる場所であり、動物的な観点から考えると、僕は屋外で全裸になるという面白さ、意外さ、自然さを感じて好きです。傘をささずに雨の中を走り回ってびしょ濡れになってみたいな、という欲求や、泥を触ってみたいな、みたいな好奇心や、木に登ってみたいな、みたいな冒険心は、おそらく動物的な僕が僕に語りかけているのだと僕は思う。湯船に浸かっていると、どこからともなく現れた少年が器用に頭の上に手ぬぐいを乗せたまま、目の前をすいすいと泳いでゆき、そのまま湯けむりの向こう側に消えてしまう。僕はそのあとを追って、波を立てないようにゆっくり歩いていくと、湯けむりの向こうには大きな蛙の石像が置いてある。蛙は口を開けて上を向いているのだが、その口からお湯がざぶざぶ溢れているのである。蛙の石像の横には、どこから迷い込んだのか、小さなアマガエルが伏せていた。

 日が暮れるまでお湯に浸かった。ロビーの自動販売機でコーヒー牛乳を買って飲み、座敷に横になってD・インストールのロボットの小説を読む。他のお客さんも思い思いに体を休めていて、風呂上がりの人間の肌はぼんやりと透き通っていた。大きなテレビではお笑い芸人が面白いことを言ってスタジオとお茶の間に笑いを届けている。テレビ番組は唐突にアナウンサーを映し出し、緊急速報が読み上げられる。とても貴重な鳥が研究所から逃げ出したらしいのだ。貴重で、とても危険な鳥だ。その非実在鳥の鳴き声には特殊な音波が含まれていて、その音波は人間の脳に不可逆的な変化をもたらす。鳴き声は一種の未来予知で、非実在鳥は鳥のように見えるけれど実際は物体として存在していなくて人間の脳が非実在鳥=現象を鳥のような映像として知覚させているだけらしいのだ。でももしそんな変な鳥=現象があるのだとしたら、目に見えるものの全てがうまく信じられなくなってしまうのではないか。僕が見ているもの、温泉のロビーやお客さんやD・インストールの本は本当に現実なのだろうか。温泉に住み着いている看板猫の三郎は、本当に実在するのだろうか。不安に駆られた僕は、カウンターの前で丸まっていた三郎に駆け寄り「にゃあ」と聞いてみた。すると「なんだ薄気味悪い声出しやがって」と男の声で答えたので尻もちを僕はつきます。カウンターの奥にすっくと立ち上がったのは温泉の主であるところの善知鳥次郎その人で、いかめしく禿げ上がった頭を撫でながら「にゃあなんて男が鳴くねぇ恥ずかしい」とべらんめえ調で彼が言うので、非実在鳥のことをたどたどしく説明すると、次郎さんは面白がってテレビの音を大きくし、お客さんと談笑をしたりしたのち戻ってきて「そんなニュースやってねぇってよ」と言って冷たい瞳で僕を見つめた後、「のぼせたんじゃないの?」と何故か優しい声でつぶやいた。

 不思議なこともあるものだけれど、と思いながら夜道を自転車で疾走する。小さい頃、母と僕は、電車通学をしていた姉を駅まで迎えに行ったことがある。突然迎えに行って、姉をびっくりさせる作戦だったのだ。しばらく待っていると、何も知らぬ姉が駅から出てきて、母が「ししみ、行っといで!」と僕をけしかけたので、走って姉の元へ行き、「お姉ちゃんおかえり!」と元気に声をかけた。すると姉はひどく驚いた顔をして、それからまばたきを何度もして、スクールカバンの取っ手をギュッと握って足早に歩き出した。駅前で突然話しかけたから、恥ずかしくなったのだろうか、と僕はなんだか悲しい気持ちになったけれど、どうすればいいのかわからなかったので「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と話しかけた。彼女は何もかも無視することに決めたのか、とにかく足早にすたすたと歩いて行ってしまう。怒らせてしまったのだろうかと不安になりかけた頃、突然誰かに肩をつかまれて、無理やり後ろを振り向かされた。「あんた何やってんの?!」と怒った声を出しながら、目の前に姉が立っていた。たしかに本物の姉であることが見て分かる。けれど、本物の姉は、歩いて行ってしまった姉よりも、どこか姉らしくない感じがした。僕や母が姉らしい、と思っている要素や雰囲気や行動のパターンを、常に本物の姉が持っているわけではなくて、本物の姉の体調や光の加減や外出時の外面によっては、それが上手く発露されないことがあり、それは本質とは関係がないんだけれど、全くの他人が、本物より本物らしく見えることはある。

 理想の一日だったなあ。駐輪場に自転車をとめて、家のドアに鍵を差し込んだ。部屋の照明をつけて、洗面所で手を洗う。ステレオ・システムの電源を入れて、再生ボタンを押すと、夜にぴったりの鬱蒼としたデトロイト・テクノが流れる。部屋のカーテンを閉めてベッドに横になる。鞄からデフォーの漂流記を出して、枕もとに置いた。しばらく休んだらゲームの続きをやろうと思う。目を閉じると目の前に偽紅葉の美しい景色が思いのほかはっきりと広がっていた。テレビの前に座ってプレイステエションの電源を入れようと腕を伸ばした時、真っ暗な画面に写り込んだ僕の顔は、なんだか他人のように見えた。

 

 

 

今週のお題「紅葉」