ひとつながりの過ち

 電車の中が暑いと感じているのは、おそらく自分だけではなかったけれど、暑すぎて耐えられないと感じているのは、きっと自分だけで、だから電車を飛び降りたのは自分だけで、人のいないホームを歩き去りもせず、真っ赤なベンチに座りこむ人間は本当にひとりだ。しばらく駅の壁を見ていた。灰色の、お化けみたいな染みのある壁のテクスチャーを、その表面の凹凸の手触りを想像していた。

 体が暑い。熱があるのかもしれない。風邪を引いたかもしれないという可能性について考えるのすら面倒で、疲れていることを認識するのすら面倒で、電車を待てばよいものを、エスカレーターでホームから脱出を図る。自動改札をくぐって階段をのぼると、見上げた先の出口から透明な夜が見えた。夏の間、鳴いていたたくさんのセミ達はたぶん、みんな死んでしまったはずなのに、その死体を冬になっても見かけないのはとても不思議だ。あんなにたくさんいる鳩の死骸も見ることがない。どうして死んだものは隠されてしまうのだろうか。生き物の呼吸のない冬の夜は澄んでいる。

 知らない町を歩いているだけで景色はきらきらと輝いている。僕の本能は影の場所よりも光の場所を記憶しておきたいに違いない。立ち呑み屋の幽玄な蛍光灯および赤ちょうちん、白とも黄色ともつかない街灯のひかり、自動車がテールランプをたなびかせ、歩きスマホに照らされた青白い顔の人たち。整理された歩道を道なりにゆくと隣の駅まで歩いてゆける。歩くことについて。先輩と話をしていて、先輩は5キロ離れている場所に行くときは自動車で行くと言う。歩いていくわけがないと言う。遠すぎると言う。自転車でも無理だと言う。そのことについて何と言えばいいのかわからなかったから、共感を示してしまう。共感をしたことにして自分のおかしな点を隠そうとする。自分を殺して隠そうとする。死んだものはどうして隠されてしまうのだろうか。どこへも行く予定がないのに10キロ歩くことがあります、とウォーキングデッドが言いたい。

 隣の駅の駅前は青い。青くて光っていて光の粒子が飛び散っている。美しい青い光を宿したこんもりした木。人工の幻想のリスクのない美しさはそれでもほんとうにきれいだ。生きていないからうつくしくないなんてことはちっともなかった。砂浜に打ち上げられた割れた瓶の破片が、何度も波にさらされて角を落とし、丸くなる。それをシーグラスと呼ぶみたいだ。もともとはただの燃えないゴミが、荒波にもまれて丸くなって、とてもきれいな宝石になるって、それはもう説明がいらないくらいメタファーじゃないか。

 歩いて疲れてしまったのか、注意力を失った視界に映るエスカレーターに向かった時、下りたかったのに上りのほうにつっこんでいた。ぐんぐん上ってくる階段の手前で気が付き「あっ、まちがえた」と、絵に描いたようなぼんやりの独り言を述べた後振り返ると、僕の後ろをついてきていた女子高生二人が自分たちも間違えたことに気がついて「おう、おう」と、何故か男らしくつぶやき、くるりと振り返った。正しい下りのエスカレーターを下りながら、誰もが灰色の壁を見ていた。お化けみたいな染みのある壁を。