冬の海

 今年だったか去年だったか覚えていないけれど、ひとりではとバスに乗って東京を巡った時、コンクリートで作られた海岸線の一部に、まるで幻覚のようにぽっかりと砂浜が見えた。明るくて小さくて人のいないビーチだった。人々から忘れ去られてしまったような。
 いつか冬の海を見ようと思っていた。

 昼過ぎに家を出ると、小春日和とでも言いたくなるような陽気な日差しが黒のメルトンに染み入ってくる。じわじわと浸透してもこもこがぽかぽかだった。耐えきれなくなり前のボタンを全て開けて歩く。最寄り駅に向かう途中で馬に挨拶をしようかとも思ったけれど、子供動物園はもちろん閉園していた。動物のいない檻は、檻自体の存在感が増してひややかだ。

 電車に乗って本の街で降りる。そこから電気街方面へぶらぶらと歩いてゆくのが僕の慣例だったけれど、今日は全く違う方向へ進む。
 皇居外苑の堀と緑を横に見ながら歩いていく。整然と並ぶ高層建築と緑の組み合わせは東京だった。映画で見るようなうつくしい都市。つくりものめいて輝いていた。人工物の美しさは整えられていることにあり、自然物の美しさは自由に歪んでいくことにある。

 歩いていると外国人旅行客が相変わらず多く、通り過ぎざまに聞こえる会話は異国だった。銀座から築地へ、ぎらぎらしている町並みとぎらぎらしている人達をかいくぐってどんどん進む。日差しは強くなるばかりで、歩いているばかりの僕はすっかりのぼせている。隅田川をまたぐ築地大橋からは小さな海が見えた。東京湾のはじっこのとても狭い海だ。海は青黒く陽の光を反射していた。遠くに海の上をゆくレインボーブリッジが見えた。風の音がした。

 築地大橋を降りると、豊海に出る。巨大なマンションが海の上にたくさん生えている不思議な町で、はじめてこの町を歩いたから、とても新鮮な感動を覚えた。お台場近辺はどこでも人工的な美しさと騒がしさを内包していると思っていた。しかし実際に豊海を歩いてみると、おどろくほど寂れている。高層マンション群はたしかにあるし、それは近代的だ。でも人がいない。想像していたより全然人が歩いていないし、車の通行量もほんのわずかだ。生活音もほとんど聞こえない。世界の果てみたいだと思った。豊海の狭い埠頭から海を見た。砂浜ではないけれど、海を見た。水平線の上に都市が浮かんでいた。

 橋をひとつ越えると晴海に着く。晴海は豊海以上に人の気配がない。真新しい建築が聳えているけれど、その全ての建築はまだ完成しておらず住人がいないんだと思う。海に浮かぶ最新の町は無人だったんだ、と思った。お台場の美しさは人間を排除した美しさだった。ディストピアを想像した。あるいは綾波の住んでいる第三新東京のあのマンションを。豊海も晴海も、僕はとても好きになった。清潔で、静かで、光かがやいていて、なにもない。僕の好きな、冬の海だ。

 

 

 

 

f:id:sisimi:20191231181548j:plain