2020年令和2年

 謹んで新年のお祝辞を申し上げます。
 旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。
 本年もよろしくお願いいたします。
 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 ということで今年は西暦2020年の令和2年の子年です。
 2020年、令和2年、と何度も書いておかないと忘れてしまいます。
 各種書類に記入しなければいけない時に限って「いまは何年だったかなあ」と忘れてしまい、そのたびにスマートフォンで密かに西暦を調べたりするししみです。
 誰でもそうだと思っているのですけれども、今日が何年の何月何日の何曜日かなどということは案外どうでもよいことで、晩御飯は何を食べようか考えることの方がよほど重要だと思うのですけれど、それは一日一日の意味が薄れていってるからだなあとか、社会に興味を持てなくなったからなんだろうなあとか、それって新しいミュージシャンの名前を知ろうとしなくなったのと関係があるはずだなあとか、思うのですが、せめて自分の中のカレンダーだけは大切にしていたほうが生きやすいと考えるし、自分の名前や、家族や友人の誕生日を覚えておこうとする意思は西暦を覚えておく努力よりも尊いと思うし、おそらく一年のスケールを把握しておくことは自分のためになることなんだろうなあとも少し思うのでnowをgetすることで現在時刻を入手することは行動の前提なのかもしれません。

 現在年月日を取得したら、定めたゴールに向かって行動することはうれしいです。ゴールを定めない迷い道は楽しい時には楽しいですが、前進しているという感覚が希薄ですから、心象風景に飽きると虚無感が生産されることもあります。ゴールを定めるには自分が何をしたいのか決める作業がありますので、結局は自分を知るということが人生の重要な作業として準備されがちです。好きな食べ物は豆大福です。趣味は読書と映画鑑賞です。好きな色は青です。ということの現在自分詳細を現在自分自身が知っていれよいことですから、大事なのは自己紹介ではなく自己分析で、それは人のためにやることではない場合、試験と同じように面白い経験になります。自分のことが把握できたら、ようやくホテルの予約をし鞄に着替えを入れて電車の切符を買えます。西暦2020年和暦令和2年子年の目標は、灯油ランタンを買って、夜道をうすらぼんやり照らして歩くことです。

 一年を通して生き延びられることは個々人の途方もない努力のおかげだと僕は思います。他者の力を借りることも含めて、気まぐれな幸運も、不幸も全て乗り越えることは何を差し置いても意思です。生きている普通の人、および変な人、だめだなあと自認している人は特に、生きているということはすごいことだし当たり前ではないことだと思うので、やっぱり一日ずつ一日分死んでいくということをありがたいと思いつつ憎んでいたいです。それは人が死ぬことに対して感じる怒りや虚しさや悲しさに対する反発として生きていけるような気がします。youtubeを見て楽しいなあと思うことを心のカロリーに変換することでもあるし、嫌だなあと感じる仕事や馬が合わない馬の骨とわたりあうことも同様に、グルメであることよりも何でも美味しいなあと思うほうがきっとたのしいし、美味しくないなあと思うものでもいつか好きになることもあるのだし、心にでっかい傷がある時には、生きている限りは、生傷すらも糧として人間の生き延びる図太い力を僕はだいすきです。

 2020年令和2年子年もきっと色々なことが巻き起こります。新入生新入社員が現れて活気が増したり、台風、地震、事故も起きるかもしれませんし、果物も美味しい、熱波が、黄砂が、PM2.5が、新しい映画が上映され、放射能が、新型ウイルスが、蚊が、蛇が、蜂が、ヒモムシが、クラゲが、待ち望んだ新刊が出るかもしれないし、エルニーニョラニーニャが、少子化が、ヒートアイランド現象が、ハイドロプレーニング現象が、シミュラクラ現象が、などが勃発し、それでもどっこい生きている人々が全員優勝だった。今年はどんな一年になるのか、それはわからないけれど、本当に世界中の人々がめちゃくちゃ平和でいられればいいなと思うし、それは世界中の人々の中に自分自身が含まれているからなのだし、だから自分自身がうれしいとかたのしいとか、前進したという気持ちが、ひとりひとりが幸福になることを目指す限り世界中の人々がよくなりつつあるのかもしれないという、これは誇大妄想かもしれないけれど、1円ずつでよいから地球の全人類からお金をもらったら70億円以上になるから、要するに自分を大事にしようなんてよく言われる言葉は、簡単に言われるほどには簡単に実現できないことかもしれないけれど、そういううすらぼんやりした灯りで夜道を照らして歩いていきたいと思っています。

 今年もよろしくおねがいします。