ゲームオーバー
最後にパソコンの前に座ってから9日が過ぎている。
改めていつものパソコンデスクを眺めてみると、なんだか異様に散らかっていた。以前から散らかってはいたものの、すっかり当たり前の光景になってしまって、雑然としていることにすら気がつかなかった。汚さの他にも、モニタがやたら遠くにあるように感じるし、9日前より作業スペースが狭くなったようにも感じる。他人の机みたいによそよそしい。意識の慣性が力を失ってリセットされる。
新しい視点で物を見れるようになる時、新しい自分になっている。時を経て自分の机が他人の机に見える時、今の僕と過去の僕はやっぱり他人なんだろうなと思う。
やりたいことがあって、9日間ずっとのめりこんでいた。それが例えば、社会の役に立つ勉学であればよかったのだけれど、僕がやりたかったことはゲームです。
テレビ・ゲーム。
一日平均5時間、休日は12時間、仕事と食事以外の全ての時間をテレビの前で過ごしキャラクターを動かして目を充血させ睡眠時間を削り関節が固まり肩が凝り自分が何を考えているのかすら不透明になって朦朧としながらもひたすらにシナリオが提示する障害を乗り越えるために頭をひねる。すごく体が辛い。
「ゲームをやりすぎて体の不調がとんでもないんだ」と知人にメッセージを送ると、
「なんで自分を追い込むんでんの?」と率直なお言葉をいただく。
もらった言葉について考える。なんと答えればいいのか僕には全然わからない。ただ僕は本当にやりたいゲームは全身全霊で取り組まなければいけないと思っていて、そのためにはある程度の犠牲を払ってもよいと考えている。全力でゲームをプレイすれば、大体のゲームは1週間前後でクリアできる。なので、その一週間だけはとにかく耐えたい。辛くてもやり抜きたい。僕の命が尽きるか、ゲームが終わるか、決着はどちらかしかない、と思っている。ということを話しても分かってもらえない気がしていて、なんで僕は自分を追い込んでだろうなあと輪廻する思考の横で微笑むことしかしない。
つい先程真っ黒な画面にスタッフロールが流れるのを見て、ふらふらになった頭の片隅で「もうやらなくていいんだ!」と解放された気分になっていた。ゲームをやっている時間は、それは大変楽しくわくわくするけれど、やはり体が辛いし時間はどんどん失われていく。たった9日間でも社会から遊離したような不安を感じる瞬間もある。楽しさが大きければ大きいほど浦島太郎になっていく。小説家が一作仕上げるたびにもう二度と小説なんて書くか、と思う、と何かで読んだけれどそれと似ている。あるいはアスリートが良い結果を求めて練習に打ち込むのにも似ている。きっと誰しも楽しさと、相反する苦痛を得ている。あらゆる物事に対価を支払っているのだと考えるのはよくないことかもしれない。けれども時間が好むと好まざるとに関わらず過ぎ去っていく事実を考慮すると、貧乏性の僕としては必死になれることがひとつでもあることがとても幸福であるように思う。もう当分、ゲームはやらないけれど。
のめり込む、一生懸命になる、必死になる、全力でやる、という言葉はすこしださいのであまり書きたくはないけれど無我夢中になって、我を忘れている感覚を忘れないようにしたい。他のやりたいことでも、やはり同じようにひとつのことだけに集中できたら、なんというのだろうか、きっととても生き辛くなると思う。でもそれは、すごく幸福でもあるということだと思う。