夜走るのが楽しい

 帰宅してすぐスーツを脱いでTシャツと短パンに着替えランニングシューズを装着した。ドアを開けると外は夜。星々と月。空気はひんやりしていて幻想的な生き物が建物の隙間からニュッと出てきてもおかしくはない。ランニングシューズのゴム底は神秘的なまでに柔らかで、歩くたびにたい焼き踏んづけているみたい。階段をすっすと降りる。暗がりから蛾が飛び出してきてちょっとカンフーみたいな動きになる。路地をもさもさ走りながら時計を確認すると18時で、帰宅予定時刻は19時。久しぶりに夜を走る。上手く走れるだろうか。
 耳にはめたイヤホンからはジャズとなんかのクロスオーバーが流れていて、川の向こうの夜景によく合う。街灯の無い土手は月明かり以外の光が無い。土手の下に降りる階段にもっこりした暗い影が動いた。猫だと思ってよくよく見てみると何もない。猫の残像である。頭上を高速で飛んでいくのはコウモリで、月をバックに何を吸血しにいくのだろう。小さな虫を捕らえて食べる。それがコウモリ道。
 暗闇から人の影が近づいてくる。夜のランナーはたくさんいて、みな軽快に走り去る。青く点滅している人もいるし、小型ライトを持っている人もいるし、日本刀を振り回しながらyesterdayを歌っている人もいる。歌う荒武者の残像である。
 速い自転車が音もなく後ろから僕を追い抜く。夜のライダーはとても無欲に見える。電車の整備場から濃い油の匂いがする。葬祭場から不吉な匂いがする。それから草とシベリアの匂いがする。足と手の動きがばらばらだと気がついた。修正したいけれど上手くいかない。走るセンスが欠如している。左手を前に振る時に右足が前に来るようにするといいのだと分かって試してみる。なぜか左膝が痛み始める。息が上がりはじめる。胸がみしみしと軋んだ。このまま倒れてしまうのだろうか。走れししみ、走れ。たとえ体中の骨が砕けても最後まで走るのだ。今ここで休んだら、君は死ぬまで何も成し遂げないぞ。
 歩いた。無理をすると体によくないと聞いたことがある。月明かりの下を歩くのも良いものだ。体が徐々に闇に溶け込んでいくようだ。煮すぎたじゃがいものように影も形もなくなっていくようなのだ。闇の息遣いが聞こえる。はぁ、はぁ、はぁと苦しげに、まるで亡者のような息遣いだ。幽玄な下弦の月に導かれて幽世から魑魅魍魎が姿を現そうといるのか。そうではない。それは僕自身の息遣いだ。ずっと苦しい。何かしら嘔吐しそうな気配すらある。この嘔吐感もあるいはルナティックの一部なのかもしれない。
 階段に座り込む物言わぬ男女の影が、なんだか作り物のようでおっかなくなり、逃げ出すようにして再び走り出す。少し休んだおかげで体は軽い。さらりとした汗が額をすっと伝っていく。夜の空気に冷やされて運動中の体に不快感はまるでなかった。不思議とどこまでも走ってゆきたい気分になる。この土手をまっすぐ行くと南の島の夜明けが見えるということにしよう。どこまでもまっすぐ走って、そして僕は二度と帰らない。夢の中に消えて行くのだ。スマホの時計を見ると18時30分だったのですぐに折り返した。帰ったら読みたい本がある。