月曜日

 月曜日が休みの日は映画を見に行くことにしている。
 風呂に入って体を清め、服を着て外に出ると、まるでうららかな春がやってきたような明るい日差しが地上を照らしていて、半袖を着ていてよかったなあと思うのだけれども、季節感の全くない格好をしていると、やはり町の人々からは浮上してしまい、謎感が萌芽し、石の裏に潜んでいる地虫の如き存在感の(希薄な)僕ですら衆目を集める結果になれども、そのことにいささかの抵抗感や羞恥感を抱いた際、「半袖だっていいではないか、11月でも20℃あるんだもんッ!!」と心のマントラを唱え自己の怠慢を(あるいは暑がりの身を)正当化する試みは、バスに乗ってどぅるどぅる揺られる頃にはもう完全に忘れ去られていた。

 バスの車窓からの光はきらきらしており、そのきらびやかの中に視線を据えて呆としているとよい気分だ。温泉でもないのにぬる湯に浸かっておるようだ光の、さらさらと皮膚の上を滑ってゆくわずかな熱が愉快なのは、これは僕が地虫などではなく、前世はきっと身動きのない草だったからに違いあるまい。草の中でも花や木だったらなおのことよいねと希うなどしてみる。それなら心がなくてもまっすぐ生きてゆける。

 バスがドゥンとバス停についた折、乗員乗客がうぞうぞと昇降口から放出されていく様はまるでオジロヌーやオグロヌーの集団のようだ。ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル。このいかれた時代へようこそぼくらはなどと鼻歌を交えてヌーとなり、まったく平静のイオンビルディングに僕はやって来られた。1000年後、かつて日本という国があった島へ調査にきた一団は、各地に大体5階建てくらいの、駐車場を完備した謎の建造物を発見し、食料があり、衣類があり、娯楽機械があり、檻があり、巨大なスクリーンなどがあるということを調べ上げ、一体どんな目的で作られた施設だったのかと首をひねるのだけれど、群を抜いた賢さのリーダー的存在が「これはきっと練兵施設だ」などと言って、現今においてもピラミッドになんの意味があるのかあんまし分かってないのと同じように、AEONはイオン砦として教科書に載ったり、お土産のイオン砦まんじゅうが売られたりして、その頃には僕ししみはもう死んでいるはずだから案外どうでもいいことだと思っていたのに、1000年後に輪廻転生した僕44300984が、無理を為して20000円円(だぶるえん)で買ったイオン砦まんじゅうを噛んだときにはもう前世の記憶が蘇って、ここで僕は、僕は映画を見たことがあるんだ、あれはあたたかい秋の日の、平和な時代の、そうだ、幸福な一日だったんだ僕は、バスに揺られてイオンについて、そしてビートルズの映画を見た――。

 ビートルズの映画を見たんだけれど、音楽が良かった。それは、そうだろうね、やはり。と僕は僕の書いた文章にやや戸惑っている。ビートルズの音楽がたくさんかかって、そこかしこで散見されるビートルズへの愛は、これは見ていて気分のよいものだ。ビートルズなんて、うううん、トイレットペーパーになってしまえばいいんだ! という気持ちを見せつけられたら悲しい気持ちになるけれど、私はサァ、ビートルズってよいもんだと思うナァと、オールニードイズラブみたいなことを真剣に言われたら、それは本当にそうだなあ、僕にも愛ってものがいつか分かる日が来るのかしら、という気持ちになり、映画館の真っ暗な闇の中に一陣の風が吹いた。私を信じるノヨ……と言い残して幻影は飛翔し、スクリーンの中に消えていった。はっと気がつくと劇場に灯りが戻り、またサバンナめいてオジロヌーとオグロヌーになって地を揺らしながら映画館からおん出る。

 お腹がめっきり減ったから例のごとくステーキ屋さんに入って、280gのじゅうじゅう言うやつを注文する時、すっごく楽しみなのだが、今回通された席は、外から丸見えのおしゃれな二人用の席で、僕はごく個人的にこの席を「見せしめの椅子」と心の中で呼んでいるのだけれど、店内と外の廊下を仕切っているのはぱやぱやと細っこい葉っぱのついた観葉植物と鉄製の手すりだけで、ほぼ外と言っても過言には当たるまいと思われる席なのだが、この見せしめの席でひとりでじゅうじゅう言わしていると、なんと言ったらいいのか、はちゃめちゃにメンタルの強い人間に思われそうで顔がこわばる。あの人、ひとりきりでステーキ食べてる美味しそう、うわほんとだひとりだけど美味しそう、ね、私達も食べようよステーキ、たまにはいいかもね、などという会話がされているではないかと思うと肉の美味しさしか感じられない。見せしめの席の中で一番よくないのは、外に置いてあるメニューの看板と近接した席で、そこに座ると「メニューと実物を見比べる」という法外な行いが可能になってしまい、まったく落ち着くことがない。メニューを見て僕のステーキを見、僕のステーキを見た挙げ句立ち去られたなどということになったら、なんと言ってステーキに謝ればいいのか。ステーキに咎は無いのに、申し訳が立たないではないか。地虫のような人間を通行人からよく見える席に座らせてはいけないのだ。どうかその点、お店の人にはよく分かって欲しいのだけれど、見せしめの席に座るのも4回目くらいなってからは慣れてきて、というか慣らされてきて、あまねくどうでもよくなってしまい、もともとナイフもフォークも下手だし、食べることも下手なんだからしゃっちょこばっても仕方ないと思うようになり、むしろ自分は大変におしゃれなことをしているんだよ諸君昼下がりにステーキを食べてレモン水を飲み小説を読んで僕は、という顔を演じるようになって、これはおそらく自意識のメガロパであり、今後の進化が待たれる。

 よい映画をみて、あじのよいステーキを食べたあと、床屋に向かうことになる。もう随分長いこと床屋にゆかなかったのに、ついこないだ髪をツーブロックにいたしたため、可能であれば2週間に一度は床屋へ行って髪を切ってもらわなければ生活に支障をきたすという事態に晒されている。端的に申して床屋は本当に苦手の極みで可能であればお医者さんのとこと同様に金輪際近寄りたくはないんだけれども、髪の成長と病気は放っておいても解決しないことで有名だから、昏い顔をして入り口のガラスドアをくぐると、待合椅子に既に5人、ないし6人の時待ち人が居座っており、全身から異様な気配を漂わせてひたすらに名を呼ばれるのを待っているのである。人が待っている時に人が発する熱、あるいは棘、もしくはATフィールド、あれは一体なんであろうか、どうしてみんなでUNOとかやらないの。ひとりびとりがみんな各々の携帯端末を凝視し、あまつさえ貧乏ゆすりを繰り出したりなぞして大層恐ろしげなのだ。温泉のロビーに置いてあるソファーに座るときにはあんなに股をかっ開いてだらだらしている人々も、床屋においてはとげとげになってしまうのだ。おそらくこれから椅子の上でじっと忍従をし髪を切り落とされるまで待っていなければならないという精神的負担が順番待ちの段階から人々を苦しめているからだろうと僕は思った。待っている時間が楽しければそんな精神的負担もなくなるはずだからやはりUNOないしジェンガおよびマリオカートを強制、それに逆らうものは髪型を一律丸坊主とすれば何も問題はなく、丸く収まるはずなのだ。丸く……。しかしUNOないしジェンガおよびマリオカートを、たとえばルールも知らぬ白髪の老人と共にプレーするなどの状況をイマジンするとこれは、さすがに赤甲羅を投げるのも気が引け、胃が般若心経を唱えはじめたのでよしにして、やはり大人しく携帯端末などをみて凝とするのが現況にて最善なのだろう。
 名前を呼ばれて刈り椅子にかけたら、床屋の人が「今日はこれからどこかへ出かけるんですか?」と世間話を持ちかけてくる。僕はこれに答える言葉をひとつも持っておらず、しばし沈思黙考したのち「映画を見て帰ろうかなと思っています」などともう済んだ用事などを並べたてて甚だ空虚であった。身動きが取れない場所で身動きの取れない話題について話すのは砂を噛むようだ。結局僕だって床屋はたいそう苦手なのだ。

 全てを終えて歩いて帰る道は暗く、半袖で出てきたことを少し後悔する。家に帰ったら今日はお酒飲んだりしようと思って、それはそう、神経を張り詰めさせて苦労しなければいけなかった仕事が日曜日で終わったからで、やっと山を越えたという安心が、今は少し休もうと思わせてくれており、本当に色々あったなあって、椅子の上でこれを書きながらちょっと意識が遠のいて、好きなことをやろうって急に湧いて出た衝動に久しぶりに会った。