理想の一日

 この間のこと、夜の渋谷のハチ公前でストリートミュージシャンを見学している3重の人垣に紛れて有象無象になりアイデンティティーを喪失させてくれるところは東京のやさしさです。
 路傍の人になって名前のない5秒で忘れられる人になって軽やかに弦をストロークする右手のリズムでコードが進行していくのを聴いている。空き缶が蹴飛ばされて突然甲高い音を立てても街頭の巨大モニターから流れる新しいミュージックのリズムによって音はかき消される。あらゆる音が音を相殺して絵を描き続けたあとのパレットみたいに混ざり合い補い合い潰しあい引き立てあいとにかく騒がしいその場所で僕が待っていた先輩からメッセージが届く。今どこにいますか? 僕は渋谷のハチ公前に着いたところです。僕もついたところです。僕はミュージシャンの前にいます。僕もそうです! では近くに? ええ、僕は近くにいるはずです。どこだろう。あ、もしかして。あ、いましたか。あうしろ。あ、あ、あ、ああ、ああ。ということになった。
 先輩と会うのは一年ぶりで、彼は先輩だけれどもまったく同年代の同い年の人なんだけれども、やはりはじめに会った時に彼が先輩だったことから、僕にとって彼はいつまでも先輩なんだと思う。先輩はひげをはやしていて雰囲気が少し変わった。けれどきっと僕だって何かしらの雰囲気は変わったのではないかと思う。自分では自分の雰囲気なんてものはわからないと思う。二人で激安の居酒屋に入って、信じられないくらい巨大な唐揚げを食べている時、勉強熱心な先輩は言った。
「僕はある日、理想の一日をやってみようと思い、実行した。その一日を"生活"にするために僕は頑張っているんだって、指針になるような一日だ」
 浅学非才な僕はその言葉に衝撃を受けた。
 そんなことは考えたこともなかったからだ。

 理想の一日だなあと思うような休日は何度かあったと思う。それは気分によるもので偶然に生まれた休日でいつものように映画を見に行ってステーキを食べて本屋に寄って散歩をしながら帰ってきて家でお風呂に入る。という一連の流れの中にフォークソングのようなありふれたなんでもない幸福を発見しこれって理想の休日なんじゃないかと思ったことはあった。けれどそれは同じ流れをもう一度繰り返しても理想だとは思えない種類の再現性のない幸福であった。僕が感じた理想と先輩の理想の相違点は、先輩は理想を作り上げるものだと考えており能動的だった。僕は理想というのは自然発生するものだと考えており受動的だった、という点ではないかと考えた。つまり可愛いが作れるように理想も作れるのだ、という可能性を先輩は示唆した。その考えはわくわくを呼び起こす。つまりよい考えだと思った。
 先輩の理想の一日は、詳細は失念したが朝起きて音楽スタジオで練習して公園のベンチで顧客にカウンセリングを行い夜はやる気に満ち溢れたバンドマンと音楽について語り明かすというものだったと思う。顧客にカウンセリングを施すの辺りは、実際にはお客さんがいないのでひとりごとをぶつぶつ言っていました。と彼は語っておりその点は思わず笑ってしまったが愛らしさが滲む。夜にバンドマンと語り合うという部分も、やる気のある人があんまりいないし話を聴いてくれるバンドマンがあんまりいません。と言ってしょんぼりしている姿はいっそ抱擁に値した。ということはさて置いても、彼の試みはおそらく不完全だったけれどもとても正しいとやっぱり僕は思う。何でもやってみるべきなのだ。

 能動的理想の一日を過ごすためにはまず理想の一日を考えなければならない。理想を計画せんければならない。だから僕は今ここで理想の一日を作り上げようと思う。
 まずバーのソファーで目覚める。灯りの落とされたバーに人影は無い。奥の壁にひとつだけある窓からは白い光が差し込んでいる。今日は晴れているのだろう。僕は体にかけてあったジャケットを羽織り直してバーカウンターの奥の冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してワイングラスに注ぎ、カウンターの椅子に座って飲む。それからレコードでハンス・ジマー作曲のRain Manのテーマを聴きながらどうして僕はバーで寝ていたんだろうと考え、ふとジャケットのポケットに何か入ってることに気が付き取り出してみる。トランプくらいの大きさのカードキーのようだ。カードの真ん中には蛙の絵が書いてある。僕がそれを眺めているとレジの横に設置してある電話機がけたたましくベルを鳴らす。戸惑いながら電話に出ると相手は息を飲んでこう言う。
「ししみさん!? なぜまだそこにいるんですか!? はやく逃げてください!」
 玄関ドアの向こうから複数の足音が近づいてくるのが分かる。
 それからドアノブを乱暴にひねる音。幸い鍵がかかっていたのでドアはすぐには開かない。しかしドアに何かを叩きつける酷い音が響いてきて安心できないことを僕は知る。この理想の話はあと10万字続きます。