資格試験
今年ももうすぐ終わりそうである。
365回分ガチャを回して、キラキラのスーパーレアな一日もあれば、合成素材用の地味な一日もあって、それは当たり前のことだったけれど、好むと好まざるとに関わらず、ぱっと目を覚ました瞬間に、一日がぽんと飛び出して、毎回必ず少しずつ違った時間が、他者に譲渡することができないという意味でも、文字通り、ゆずることのできない、一意の、わたくしだけのものだったから、わたくしはわたくしであることを手放すことができないということが、くるしかったり、うれしかったりで、それは当たり前のことだったけれど、生きててよかったなあって何も起きない日常の中で誰とも相対化せずに腹ん中に突然生まれたやわらかな気持ちを眺めて無表情のまんま喜んでいたい。
一年のまとめは、きちんと年末にやることにして、もわもわとうすら曇った本日は、試験をやることにずっと前から決めていた。あんまり大した試験ではなく、僕がかよっている会社の従業員は、みんな持っている資格があって、その資格試験を、本当に今更ながら受けてみようと思い立ったわけだ。結果はまだ出ていないけれど、結論は出ていて、僕は落ちた。
試験という言葉を聞くと、背筋がぞわぞわするわいという方は多かろうと思うけれど、胃の腑がにきにきしてつべたい汗が流れてきよるわいという方は多かろうと思うけれど、試験から何年も離れていると、それはそれで懐かしさが生じ、ちょっと試験受けようかなと思うことだってあるんである。
中学生の頃などは、試験の前日になると、夜中のうちに学校に隕石落ちて爆発してればいいのになとか、車にひかれて致命傷にならない程度に怪我して入院できればいいのになとか、そんなことばかり考えて、あわれ味のよくしみた味のある生物だったのであるが、試験がどうして嫌だったのか考えてみると、嫌なのに強制的にやらされるからであり、なぜ嫌なのかと考えてみると、友達より点数が悪いと馬鹿にされ、先生に叱られ、親になじられ、自己嫌悪に陥り、自己不信をこしらえ、やけくそになり、風紀が乱れ、髪を逆立て、享楽に身を投じ、田畑が荒れ、無気力が蔓延し、国民総生産は低下し、食べるために犯罪を犯す民が増え、モヒカンから種もみを守るために廃墟の片隅で身を固くしていなければならない世紀末スラム国家ジパングが形成されるからである。
本来的には、試験は自分の学力を測るためにあり、自分との戦いのはずなんだけれども、自分以外の要素は現実的に僕を包囲し責め立てることがあるので嫌いだったのだ。つまり僕を包囲し責め立てる障害を取り除くと、純粋に自分との戦いがはじまり、試験に取り組むことは割と普通に面白いものになる。分からないことが分かるようになるとか、失敗ばかりだった箇所がいつの間にか成功するようになってくるところとか、単純にうれしい。
試験勉強をやればやるほど出来るようになるのって、幸せな事実だ。世の中にはいくらやっても成功しないことだってあるし、どれだけ頑張っても認められないことだってあるから、試験に合格するという明確なゴールがあらかじめ見えていて、それに向けて努力するだけで確実に進歩しているのが分かる単純な構造の中にいることは、複雑で面倒な社会に暮らしていると、とてもわかりやすくて尊いことに思われる。
ところで僕は今回の試験に落ちたのだが、試験に落ちても誰も僕を馬鹿にせず、誰も僕を叱らず、僕自身やけくそにもならないということが、なんだか爽快だった。まったく自由なものになった試験というものを、以前よりずっと好きになった。
今度は違う試験を受けようと考えている。合格するかもしれないし、不合格かもしれない。資格は僕の仕事には役に立たないから、どちらでもいい。歩いたら歩いた分だけ違う景色が見られるという、ただそれだけのことを確かめたいし、その実感はおそらく、資格よりもずっと僕を助けてくれる。