日記

 必ず目覚めることが人生の課題になっている。起きる、風呂に入る、換気扇の下に立つ、スーツに着替える、髪型を整える。前髪を、気にする。鏡に映る前髪は、これは演じているようでもある。カメラ、アクション、前髪は眼球の前で演じているようでもある。監督は覚めた目で見ている。
 通勤の電車に乗る、スーツ姿の人々が椅子に座っている。時々大きなバックパックを股の間に置いた旅人が混ざっている。旅人の肌は浅黒く焼け、Tシャツはくたびれている。獣の柄の皮を纏った肉食獣が混ざっている。麝香のにおいをさせた肉食獣はより強い革で武装し、周囲を睥睨している。読書中のおばあちゃんが混ざっている。文庫本は陽に焼けていて手触りが良さそうに見える。学生が混ざっている。スマートフォンがぴかぴか光る。妖精が混ざっている。妖精はくすくす笑っており、軌道を擦る車輪の震動と妖精の笑い声だけが車内にひびいている。みんなどこかへ行こうとしている。AからBへ。BからCへ。そうしてCからBへ。BからAへ。移動距離・時間・費用のグラフが少しだけ伸びる。Zまでの距離・時間は人生の移動結果(トータル)が伸びた分だけ少し減る。移動結果を取り込んだ解釈機が概念Xと概念Yを出力する。概念Xを採用すると微笑む。概念Yを採用するとうなだれる。データの量が多い方を真実Ωとして採用するアルゴリズムを用いて、概念X<概念Yの時、真実Ωを真実Σに変換する要素は次のうちどれか。僕は世を儚みウイスキーの瓶を抱えながらシャワーを浴びた。僕はトゲトゲのついた肩パットを装備して髪型をモヒカンにし、バイクに乗ってヒャッハーと叫んだ。僕は白い毛むくじゃらの犬と目が合い、くもりなき眼で見つめられたため微笑んだ。
 会社に着くと仕事をする。他愛ない話をする。「台風がくるみたいだよ」「また台風がくるんですね」「すごく美味しいラーメンなんだよ」「ラーメンは美味しいですね」「奥さんが怒っちゃったよ」「奥さんを怒らせないようにしないとですね」「疲れたよ」「疲れましたね」「もう誰も信用してないよ」「仕方ないですね」「夜の次には朝がくる」「あなたは心の太宰!」「大人とは裏切られた青年の姿である」「そうかもしれないですね」「生まれてすみません」「仕方ないですね」「諸君、私は戦争が好きだ、諸君、私は戦争が好きだ」「あなたは心の少佐!」「スクラップアンドスクラップ」「あなたは心の」「あなたは」「ぼくは」ブレイクスルーしますか? →はい いいえ 「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」インナーチャイルドをだっこして誰もがパソコンの前で血の気の無い顔をしている時、真実Ωを真実Σに変換したいと思うことは難しい。お疲れ様でした、と述べて仕事フロアを出ると、都会にはネオンを含んだにわか雨が降っていて、灰色の空を見ると故郷を思い出した。廃墟のような町だった。人が誰もいない町だった。氷の浮いた川に白鳥がいて、彼らは丸めたティッシュみたいな格好をして休んでいた。川に近づくと、えさをくれる人が現れたと思って白鳥がへらへらと鳴きながら水面を滑ってやってくる。薄い鉄の板をこすり合わせたような、壊れたラッパみたいな、へらへらした鳴き声だ。りんごをあげてきなさいと母に言われて小さく切ったものを持って川岸に行き白鳥にりんごを投げると彼らはばくばく食べた。パンも食べるし、手にも噛み付く。くちばしにはヤスリのような細かい凸凹があって、噛まれるとざらざらして痛い。りんごが無くなったのが分かると白鳥は川の真ん中のあたりに行ってしまう。家に帰ることにして電車に乗る。駅からマンションまで歩いていると、中華料理屋と駐車場の間の狭いスペースに犬小屋があって、そこに白い毛むくじゃらの犬がいる。日差しが強い日には犬小屋の影に寝ている。犬の前を横切ると、顔を上げてこちらを見る。微笑む。赤ん坊と目があったときと同じように、そうしなければならないという衝動のままに微笑む。光のもとに影がある。どちらか一方だけを見つめ続けるのはフェアじゃないんじゃないかと僕は考えた。川岸を歩いていると日が暮れて行った。オレンジと紫色の光が空を埋め尽くした。コウモリが飛んでいるのを東京に来てはじめて目にした。馬はテニスコートを見ていた。古道具屋が修理した東欧のネクタイピンを購入した。パンの袋を開いた。蝉が仰向けになっていた。耳栓をつけて眠った。満員電車の中、ピアノの曲が流れていた。生き物がAからBへ移動する。BからCへ。最終到達点Zへ移動しようとしている。火を運んでいる。熱が伝導する。Aに戻って休む。風呂に入ってご飯を食べてベッドに入って眠る。それから人生の課題に取り組む。