歩く体

 小さな子供がやたらと走り回るのは、駅のホームを笑いながら駆け抜けるのは、公園の広場を文字通り走り、回るのは、もっと小さな頃、体の自由の利かない赤ん坊だった頃の不自由さから解放されていることに気がついたからだ。意味不明な言葉を口走るのは、新しい言葉の意味が未知だから、ブロックの凹凸を組み合わせるように、正しい組み合わせを探すことが、この上なく面白いからだ。新鮮であることと未熟であることは、すこし似ている。だから、生きるのが上手になっていくことが、すこしずつ水気を失って乾いて、枯れていくことは、腐乱することにも似ていた。しかし子供の心の新鮮さは、社会の中で磨かれて固くなった精神の殻の、ずっと奥のほうで、百歳になってもたぶん、ずっとうるおっていて、突然野の花を、きちんとうつくしいと思ったりする。やわらかく繊細な部分と、枯れて腐っていく部分と、その両方が代謝を繰り返して、総体で輪廻して、螺旋階段を上るように、同じ景色の中を、でもわずかに上昇を繰り返して、それがたぶん自然という言葉の意味なんだろう。精巧な大自然のサイクルに含まれている、人間の季節。

 

 

 

f:id:sisimi:20200322171724j:plain

でかいとり

 住宅に囲まれた狭い川がある。川はきっちりと整備されているけれど、水の力が野生を呼び寄せ、コンクリートをばりばり砕いて野草が繁茂する。生命は水から生まれたのだなあと思うと、そのたくましさ故にわたくしはかんばせをほころばす。
 川を眺めつつ歩いてゆくと、視界の端に異形がちらと現れ、姿を認めるや目が離せなくなった。とてもでかいとりが、青暗い水面に足を浸して、文字通り突っ立っているの、一見して造り物かと思うくらい微動だにしないため、目立たないのだけれど、一度みつけてしまうと存在感に圧倒され、こんなすこぶる都会の街に、あんなにでかい鳥獣は幻覚じゃないかしらと目を擦らざるをえない。過去にも何度か、この種の鳥を目撃したことがある。一度は故郷の、とある池の中で、やはり同様に造り物めいていて、生命の感じがまるでしないのに、堂々とした存在感に打たれ、にわかに恐怖を覚えた。おばけ鳥のようだった。わたくしは、あのでかいとりと友達になりたい。

 

 

 

f:id:sisimi:20200322173939j:plain

下町のバンクシー

 歩く体を引きずって、正午より16時まであちこちを歩き回っていた。15kmを歩破した。本日の最高気温は24℃とされていた通り、小春日和であったため、大変こころよく歩き歩きしていたのだけれど、変なものをみつけた時には、足を止めてじっと対象と向き合いたい。
 川の堤防にスプレーで描かれた犬みたいな絵を見て「あっ、下町のバンクシーだ!」とわたくし思う。バンクシーはもともと下町の感じがあるけれど、既存の芸術をやっつけてやるぞという気概を感じるけれども、この青い犬の絵からはまったく害意を感じないし、むしろ少し愛嬌があって、ちいともすごくない、びびらしたい感を微塵も感じないところがわたくしは好きだけれど、公共の施設に落書きをしてはいけないので、描いた人は、罰せられればいいと思います。

 

 

 

f:id:sisimi:20200322175212j:plain

けものみち

 結局はいつもの、日本最大級の川にたどりついた。土手の斜面に獣道が出来ていて、なんというのだろう、高村光太郎さんの『道程』が、そのまま映像になったみたい。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る

 獣道を、一番最初に歩いた人の前には、道なんかなかったんだものな。道を作ろうとして歩いたわけでも、おそらくなかったのだろうけれど、それでもたくさんの人が足跡をたどって、踏みしめられた土が固くなり、自然に道ができてしまった。そんな作為のない自然さは、率直さは、曲がりくねってか細いけれど、なんだかきれいだなあと思う。