耳栓を弄び続けた。カーテンがかかっている窓からは誰かが覗いているのではないという恐怖がごく僅かにいつもある。けれどそれはテレビの中のホラー特番のせいだと分かっている。いつも恐怖がごくわずかな影や枝の形や、思いもよらぬ突起物を妖怪に、幽霊に見せている。耳栓を机の上に二つ並べる。どちらも全く同じ形というわけではないから、もしかしたら耳の形に変わっているのかもしれない。濃緑色と薄黄土色が複雑に混ざりあった色をしている耳栓は、インターネットでの説明によれば遮音効果が一番高いレベルのものだそうで、それをつけていなければ僕は一睡もできない。マンションの隣に住む住人が夜になると激しく騒ぐのだ。走り回っている。足を踏み鳴らしている。雄叫びを、あげている。それからテレビの音だろうか、何かたくさんの人が歌ったり話したり鉄を打ち鳴らしたりする音が塊になって轟々と鳴り響いている。そしてどしんどしんと壁に何かが打ち付けられる音だ。隣の住人が体をぶつけているのかもしれない。寝返りが烈しいのかもしれない。声の出ない熊を飼っているのかもしれない。そういうことが僕の神経に触れ、カーテンの隙間から誰かが覗いている気がする。携帯を手にとってアラームの確認をすると、まだ時間まで30分はある。耳栓を耳に入れると心臓の音と、気管を通るぞうぞうとした空気の音が聞こえる。それ以外の音が全く聞こえなくなる。僕の神経は僕の体内の音にフォーカスする。そして僕は自分の音を全部消すにはどうすればいいかと考え、疲れるまで考え続けることになる。ようやく答えが出そうだなと思ったところで僕は真っ暗な闇に足首をつかまれこの世ではないどこかへ連れて行かれる。そうして二度と帰ってこない気がする。昨日の僕はもうこの世にはいなくて、だから目が覚めるといつも何かを失った気がして僕は時々泣いた。

 23時の地下鉄の中で顔を上げると、薄白い照明が車内をぼんやりと照らしている。金属の手すりは光を少しだけ鈍く反射している。吊り革が揃って揺れている。窓の外は真っ暗で何も見えない電車の中には僕ともうひとりしか乗っていない。もうひとりは夏なのに白い手袋をはめている、濃紺のスラックスは丈が足りていなくて白い靴下がずっと上の方まで見えていて汚れている、靴はぼろぼろの安全靴だった。上着はおそらく何年もずっと着続けてきたであろうウインドブレイカーみたいなてかてかした素材の何かだった。彼は天井を見上げ、白髪まじりの蓬髪をちらちらと輝かせていた。半開きの口から前歯が一本無いのが分かった。目は青みがかっていて、ほとんどまばたきをしなかった。彼は怒っていた。怒って何かを口走っていた。でもその声は電車の走行音ではっきりとは聞こえなかった。しゅわしゅわと言っていた。ずっとしゅわしゅわと言っていた。声の出ない熊を飼っていた。虚空を見つめ続けながら彼はひたすら怒っていた。僕は彼を見続けないわけにはいかなかった。車両には僕と彼しかいなかった。僕は彼と同じように怒り出すべきなのか。そして神様とか運命とか、それとももうどうしようもない過去とかを必死になって傷つけようとすれば彼はもう怒らなくて済むのかもしれないと思った。窓の外をものすごく強い光が走っていくそれはビッグクラウンの看板のネオンで、窓の外の前の方からものすごい速度で近づいて来た時、彼は急に立ち上がって目を見開いて両腕を広げて「遅れちゃう! 遅れちゃうぞ!」と太い声でわめきはじめた。僕はスマートフォンで乗り換え案内を調べた。電車の到着時刻には別に変更はなかった。通常運行をしている。僕は遅れないよ大丈夫だよと言いたかったけれど、彼がそういう事を言っているわけではないことは分かっていた。彼は必ず遅れる。ずっとずっと遅れ続けている。もう絶対に追いつけない。電車が僕の町についた時、彼は電車を降りなかった。むっとする夏の夜気の中に祭り囃子が聞こえた気がして耳を澄ますと、しゅわしゅわと聞こえてきた。もうドアは閉まって電車は行ってしまったのに、しゅわしゅわと聞こえてきた。気味が悪くなった僕は急いで家に帰りたくなった。僕は焦っていた。早く家に帰らないと、間に合わなくなる。

 夜道を歩いている時、犬からメールがきた。僕は犬のメールアドレスを知らなかった。しかし犬は僕のメールアドレスを知っていたらしく、件名は「犬です」だった。本文はとても短く、「今家の前にいます」だった。犬がいるんだ、と僕は思った。家のドアの前に犬が座っている。犬は僕を待っている。僕は犬が手抜かりをしたと思った。どうしてもっと前から家に来ることを教えてくれなかったのか。前もってわかっていればきちんと帰宅時間を知らせることができたのに。それにメールアドレスもきちんと教えておいてほしかった。僕はいきなり知らない人や犬からメールがくると混乱する。待たせているのも悪いと思い急いで歩いた。マンションの階段を駆け上がって家の前の共用廊下に出ると、ちょうど隣人が部屋から出て来るところだった。僕は階段の陰に隠れた。ドアを開けて出てきた隣人は首の長い大男だった。2mくらいあるように思われた。髪は短く切ってあって、白いTシャツを着ていた。でも顔は見えなかった。しばらくがさがさとビニール袋の音がしていた。ビニールとサンダルの音が廊下の向こう側に消えて行くのを待ち、廊下に顔を出す。もはや誰の姿もない。かばんから鍵を出しながら素早くドアの前に移動し、鍵穴に鍵を差して回す。すっかり建て付けの悪くなったドアは金属がこすれる嫌な音を響かせて開いた。玄関に飛び込んでため息をついたあと、靴を脱ぎかけてふと犬のことを思い出した。犬が待っていたはずだった。念のためドアを開けて周囲を見渡したけれど犬の姿はどこにもなかった。もう帰ったのだ。

 キッチンに立って考えごとをしていると醤油が話しかけてきた。醤油は暗い顔をしているじゃないかと言った。大塚明夫さんの声にそっくりだった。暗い顔をしている自覚はなかった。ただ少し疲れているだけだった。ただ少し疲れている状態が10年以上続いていた。お前はもっと体を鍛えたほうがいいと醤油は言った。たしかにそうかもしれないと思った。醤油のボトルを手に取ると、何をするふははくすぐったいぞと醤油は言った。僕は微笑んだ。それから醤油をもとの位置に戻した。リビングに置いてあるマットレスに寝転がり、読みかけのかもめのジョナサンを読もうとした時、隣の部屋から烈しい物音が聞こえてきた。凸凹の巨石を転がしているような音だ。僕はテーブルの上に並べてある耳栓を耳に入れた。それから身を固くしてじっと耐えた。我慢太郎の話が思い浮かんだ。我慢太郎は戦国の世に生まれた普通の村人なのだが、人間離れした我慢強さがあるのだった。ある日、我慢太郎は隣の村の、更に隣の、もっと隣の村までお使いを頼まれた。金属の塊を運んでほしいとお願いされたのだった。金属の塊は50kgもあったけれど我慢太郎は我慢強かったので引き受けた。道をどんどん歩いていくと、山の中の崖の道を巨石が塞いでいた。人間の力ではとても動かせそうにない大きな石だ。我慢太郎はそれを見て嬉しくなって笑った。おれと我慢比べをするつもりか、と我慢太郎は言った。巨石の前にどっしりと座り、頭の上に金属の塊を掲げた。その姿はどんな天変地異に見舞われても揺るぎないだろうと思われた。我慢太郎の姿を見て、巨石は自分が負けたことを知った。どんなことをしても我慢太郎が道を譲らないと悟ったのだった。そして自ら崖を転がり落ちていった。我慢太郎は巨石が自分から落ちて行ったところを見ていたけれど、立ち上がらなかった。もっと我慢できると思った。長い年月が過ぎて、鉄の塊は溶けてしまった。我慢太郎の上に流れ落ちた鉄は、我慢太郎をすっぽりと覆った。まるで鋼で出来た彫像が天を支えているような姿だった。我慢太郎の像をみつけた村人は、その像を持ち帰り崇め奉った。今も我慢太郎は、鉄の皮膚の中で何かを我慢しているのだという。しかし僕は我慢太郎ではないから、サンダルを履いて部屋のドアを開けた。すると家の前を毛むくじゃらの犬が横切っていった。迷子の犬だ。沖縄で見た犬と本当にそっくりだ。犬はきょろきょろ辺りを見渡しながら廊下の向こうの階段を降りて行った。隣の部屋のチャイムを鳴らすと、ドアの向こうの騒音は一瞬静まった。夏の夜の空気の流れが町の果てからごうごうと聞こえてきた。それからドアを開けて出てきたのは眼鏡をかけた背の低い青白い女性で、下から覗き込むようにして僕を見ていた。髪を後ろで結って、とても適当なTシャツを着ていた。僕は「間違いました」と言った。彼女は「え?」と聞き返して目をそらした。それから「はい」と言ってドアを締めかけた。締めかけたドアの隙間から獣臭がした。僕は逃げるようにして部屋に引き返し、醤油を抱きしめてタオルケットにくるまった。いつまでそうしていただろうか、カーテンの隙間から白い明かりが線になって入ってきた。夜が終わったのだった。僕は間に合ったのだった。カーテンを開けると、町は朝日できらきらと輝いている。階下の国道にはわずかながら車が行き交い、歩道には人や影が行き交っている。しゅわしゅわと蝉の声が聞こえてきた。それはどんどん大きくなってきた。どこかに蝉のマンションでもあるのかもしれない。会社に行くためにシャワーを浴びて服を着替えた。冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。革靴を履いて部屋のドアを開けた時、首の長い大男がビニール袋を両手に抱えて階段を降りていくのが見えた。
 熊を捨てにゆくのだろう。