曙光

 日々の生活を、鬱蒼とした心の中で過ごしている陰気な僕ではあるが、このような者でも母がいて、父がいて、おそらく祝福されて生まれてきたのではないかと思う。両親は毎日ご飯を食べさせてくれ、寝床を与えてくれ、時には褒めて頂き、ゲームソフトやマンガ本といった娯楽まで頂いて、これは言うまでもなく幸福であった。お母さん、及びお父さんの不屈の愛のおかげで僕は――鬱蒼としてるけど――犯罪者にもならず、借金もこさえず、まあまあなんとなく元気に暮らせている。あなたたちはパチンコばっかりやってあんまり家にいなかったけどとりあえずまあサンキューとか言いたい。
 などとエモーショナルな考えを抱いたのにはきっかけがある。それは、会社を辞めたM君からの、一通のメッセージだった。
「朝早くにすみません。さっき子供が生まれました」

 おめでとうございます、という言葉のなんたる軽さ。水鳥の脇毛のようにふんわりなのよ。胸のうちにじんわり広がるぽかぽかした気持ちを言い表すには、まるでものたりない。本当はもっと気の利いた言葉を贈りたいのに、山ん中に生えてるでっけえひまわりみたいな言葉があればいいのに、奥さんに優しくしてあげるんだよなんて現実的なことを書き送ることしかできなかった。
 出産祝いを送るので、住所などを書いておくれとお願いしたら、
「遠慮なくいただきます!」と、実にM君は、お父ちゃんになってもM君だ。きっと何も変わったりしないのだ。ほんの少し苦労をして、赤ん坊が彼の内面をぐいぐいと押し広げ、彼を頑丈にするくらいのことは起きるのだろうけれど。赤ん坊がM君から世界を学ぶように、M君は赤ん坊から世界を再教育されるのだろうけれど。そういう一連の体験を、僕は希望などと呼んでいて、それはね、形は違うかもしれないけれど、誰もが持っているものなんだ。

 夕暮れが近づいてきた頃、職場のパソコンに向かって手慰みの資料などを作っている時に、M君から再びメッセージが届く。上司や同僚の監視をかいくぐり、スマートフォンを確認すると、目の大きなつるりとした生き物の写真が添付してあって、
「これが顔です」と、英文直訳調の説明文が記されている。
 少ない言葉から、M君のわずかな緊張が伝わってくるようであった。きっとはじめての事ばかり起きているだろうから、誇らしさや不安や、たくさんの気持ちを抱えて、僕と同じように言葉の伝わらなさを実感しているのかもしれない。
「かわいらしい赤ちゃんだね」
「僕もそう思ってました」
 僕もそう思ってました、という言葉が、これほど祝福されている日もないだろうと思う。

 M君は最後に、子供が太るといけないから、だいすきな家系ラーメンは卒業しますといった。
 彼は、良い親になるだろう。そのために努力するだろう。自分の不遇の因果を、きっと断ち切るだろう。そしていつか彼自身の人生を、すっげえ良かったなって思える日が来るだろう。無責任な預言者の僕は、そういうふうに信じている。