マッチポンプ

 一年前に書いた文章が読みたくなり、フォルダを漁った。

 私は一年前、こんな文章を書いていた。

 

『10年後の言い訳』

 生きて、今日も煮物を食べている。それから明日のことを考えている。誰かが鼻歌を歌っている。アスファルトの上を鉛筆の芯のように硬い音を立てて歩いてる。こつん、こつんと打っている。響いている。机の上に置いてあるビールはいつになく古めかしい味がする。トルメキアの味がする。ウマイヤ朝の、草木の生えぬ丘の上で白い布を纏った半裸の女が飲んでいる発酵した酒の。思っていたよりも体の調子は良くない。そして思っていたよりもその事がどうでもいい。そんな夜にすることと言えば映画を見ることくらいだった。ミカヅキモとミカヅキモモコの関係性に思いを馳せない。明日はどこかの水族館へゆこう。ひとりで。ひとりきりで魚に囲まれて冷たい海水を飲んでしまった。舌に歯に、海水が引き締めてゆく肉の体へ、喉を落ちていくよ、喉をおちていくよこの世界で血の次に生命の味がする水が、胃の腑に、そして体液に、やがて排出されそれは一部になる。生きて、10年後の言い訳をしている。悲しいことを言いたくない言い訳をしている。笑っているためには何ができるか考えたことがあまりなくてそんな自分が天国の片隅に腰を下ろしている。そして誰かが歩いている外の、ずっと向こうに光っている街の灯りの下で、誰かが今日も朽ち果てているという事実を承知することができるの。誰かがもう夢を見ている。今日もコンクリートの上をこつんこつんと打っている、そんな夢の音が聞こえた時、コンゴに引っ越したばかりのキム・カッファンネリチャギの練習をしている。そして煮物を食べている。夢を食べている。電子レンジの中に隠しておいた運命の卵は、その塊はいっそ大きな鶏になって地球をジュラ紀に孵してしまう。僕たちが私たちが夢を見る時、宇宙ロケットは完成する。明日は誰かの誕生日で明日は誰かのお葬式で、はじめてできた友達は、その時は他人だったのだと気がつく。友達のことを友達と呼ぶことを知って本当の友達はもう二度と現れないけれどもポジションは脳に心に確立する。夢の話を聞くのは世界で一番退屈だと言っていたたくさんの人達の夢の塊がとても悲しい。欲しいものをねだっている鼻声の犬みたいで、撫でてあげたい。迷子になった大人の次に孵ったニワトリの可能性は減じている。ポッシブル。ポジティブ。思ったより状況は改善されもせず不完全でいつまでも固着しない。そういうことを安心している自分もいるし、柳に風、斬鉄剣はこんにゃくを斬れない。愛は世界を救うかもしれない。悪は世界を救うかもしれない。アナロジーの罠はつまり、僕と君が人間だということから始まっている。種族とか心根とかも含まれているけれど目が2つあって鼻が1つで口が1つで、歯があって、くしゃみをするって、そういうところが似ているね。似た者同士だねって、人間同士で言い合っている。それを肯定も否定もできないししないし、アナロジーの罠なんだし。明日天気になるだろうか。曇っても雨でも晴れでも槍でもコンスタンティノープルでも、行き先はいつだって決まっている。決めてある。意志を意思するみたいな。行き先が無ければゴールもないみたいな。そんな10年後の言い訳をしている。
 水族館はその日も水族館で明日も水族館の予定だった。ママンは死んでいなかったし、太陽は別に眩しくもなかった。誰かの叫び声と共に鯛やヒラメが舞い踊っていた。彼らはいつも舞い踊っていた。悲しくも嬉しくもなかった。ただ舞い踊っていた。そしてそのことについて人類は様々な想像をした。誰かのためにとか、愛とか平和とか、核兵器とか、難しい病気について考えていた。でも最後に笑っていた。みたいな話を考えていた。消しゴムは消しカスになった。でも人類はどこかへ行けると思っていた。最初の問題は人間の成長過程にあって、赤ん坊が赤ん坊であることだった。それは問題だった。もし赤ん坊が鹿のように一日で立つことができたならば、どこかへ行きたいと思ったりせず、それを歌ったりもしないで草を食べてにこにこしていけるのかもしれなかった。そういうことを人類はというか私が考えていた。そして私は人類だった。人類はビタミン剤を食べていたし、煮物も食べていた。DHAを飲みすぎて尻から魚油が出ていた。恋は終わり、愛も終わっていた。人生がポケモンフラッシュだ。
 人生がポケモンフラッシュだ。どうにも倒れる人間が多いと思っていた。天国と地獄は、みんなが忘れてしまった概念のひとつで、大人たちはゴルフとパチンコの話ばかりしていて、天国は勝つことで、仕事でミスをしたら地獄だった。それでいいのかと、それでいいのかと嘆いた神様は、といっても人類の心の中の神様は、偶像崇拝は禁止されていてもミニスカートを生み出してしまった。そしてアイドルは握手会をした。握手会はモスクに向かってこうべを垂れることで、かつ皇居に向かって敬礼することで、現在の信仰は、日本はどうなってしまうのって日本の歴史も知らない私が少しだけ考えていた。アイドルは可愛い。犬は可愛い。アイスは可愛い。生足は生暖かい。素足は冷たい。爪は伸びる。鯛やヒラメのボスは乙姫でディーバで船人を惑わして岩礁に突っ込ませる精霊。ネットゲーム依存症、アイドル依存症、アルコール依存症、生命の依存症、そして全然元気な人達が湘南でブラックライトをつけたミニバンから流れるリズムの早い不思議な音楽を聞いて舞い踊っていた。オスが踊るのは動物として正しかった。カマキリのオスはそうして食べられてしまった。色々なオスが食べられて骨になってしまって、だからオスは少年誌の中で永遠の命を望んだ。光り輝く剣で全世界的な悪を斬り伏せて存在は濃く高く厚くなり、物語は終わるべき時に終わりを告げる。コロンブスが最期、貧困の中で死んだと聞いた時、私はどんな人間をも責めることはできないと思った。正義は悲しくないし、悪も悲しくない、でも正義を認められなかった正義は、とても悲しい。
 その水族館は真っ暗で水槽の奥の世界だけが青く深く重かった。ヒトデがデデデ……と砂の上を歩いている。イソギンチャクの触手は柔らかく、とげがあって神経毒が魚を狙っている。いつかどこかの草原にベッドを置いて眠っている時、私はイソギンチャクのようなものなのかもしれない。お母さんはかつていて、お母さんは今、お母さんというよりはお母さんのひとつ下の概念のようになってしまっていて、それでも笑っていてほしかった。香水の匂いをかぐとおばあちゃんを思い出す。香水の匂いをかぐと洗面台を思い出す。使われなくなったホテルのくたびれたトイレの洗面台にはホコリの匂いが漂っていて、どれだけ目を開けても夢の中にいるみたいだった。私達はポケットに入れたマジックやチョークであちこちにマントラを書きはじめ、チャネリングはいつまでも続き、見たことのないものや、既存のものでないものを呼び寄せる儀式はいつだって不気味で、誰もいない場所に惹きつけられる人間の寂しい感性が、人恋しい感性が逆説的に誰よりも熱かった。夢の中でサンチャゴは浴衣の上にドテラを羽織っていた。サンチャゴは老人と海の中でどんな役割を演じたのか説明できなかった。私は何も覚えていなかったし、覚えていることを書くことがたぶん苦手だった。10年後の言い訳を明日も昨日も書いていた。あなたが10円ガムを買った時私はときめいた。星の下に生まれて星の上で生まれていた。何を言っても何かを言い返してしまうの。思っているよりも思っていない。煮物はこの上なくおいしい。おでんは美味しい。どうして海の中の魚は自然と煮物になってしまわないのだろうか。どうして魚はふやけないのだろうか。私にはわからないことが5億個あった。そしてその中のたったひとつの答えを出すのに5億時間かかった。わたしが知っているのは、石の下にダンゴムシが隠れているということだけだった。そのことを誰かに話したかった。石の下にダンゴムシが隠れているという話題で共感されたい。そういう話をしたいのにそういう話をしてくれる友人や知人はいなかった。だからチャネリングするしかなかったのに、10年前の私はチャネリングしてくれなかった。私のカルマは必然的に低くなっていった。何もしないということは死だった。死んでいるということは安寧で安心だ。高くも低くもなく、ジュブナイルでもビルドゥングスでもなく、プログレッシブでもアンティークでもなく、犬神家のあの、海の中に突き刺さって息絶えた人の姿を巨大なポスターにして壁に貼って、隣の部屋に住んでいる韓国人のキム・カッファンと一緒に眺めながらえびせん食べたい。そういうことがしたいと言いながらおでんをつついていたい。世界征服の話と同時にドストエフスキーの話をしたい。話をしたいという話をしたくて、赤い実が弾けたい。願望はどこまでも大きくありたい。夢は大きく生活は小さく、想像は限りなく、空想を叱る大人は水槽の中で舞い踊っていた。鯛やヒラメは姿を消した。薄暗い水族館の狭い廊下の両サイドに広がる水槽の中に大人たちが舞い踊っている。ピアニッシモという言葉が不意に浮かんで、それは見たこともない女の友達が吸っていることになっていたなとふと思った。会ったことがない時ひとは観測されないシュレディンガーの猫で、いるんだかいないんだか分からなくて、だから不安なのだった。笑っていてもらわないと、などと承認欲求の鬼になるまでもなく、5億人の恐れているのは今や退屈なのではないかと思うと、卑しさや悪意も肌に優しいガーゼみたいなものなのではないかと思うこともあるの。間違ったことを言ってしまって、悲しそうな疲れた顔をされた時、暗い道の街灯の下に怖いおばけがいる感じがする。誰かが幻想的な吐瀉物の続きを追っている。狼の格好をした赤ずきんがカゴの中のワインをがぶ飲みして大人の女になる。赤ずきん赤ずきんを脱ぎ捨ててディオールのマントを羽織る。そしてディオールずきんちゃんとは呼ばれない。彼女の名は、都営地下鉄のトンネルの奥の扉の表札にかかっている。ビールを飲んで迷い込んだ家なき子がポケットのマッチを灯して幻覚に苛まれ、スパイダーマンが自分に合ったブーツをABCマートで探している。天国は、そして地獄はどこにも続いていなくて、それが人類には嬉しくて、どこかへ行けると思っているからこそ最初の一歩を踏み出せた。明るい言葉の影にはいつだって暗い言葉があって陰陽で、誰かを好きになることは誰かを嫌いになることだったのかもしれない。からあげクンを食べながら公園の地面に突き刺さっているバネ仕掛けの象にのって天国の歌を歌っていたら警官が二人きて私に話しかけてくる。そして仕事が終わるのを全人類はとても楽しみにしていた。靴をみつけたスパイダーマンはポケットから財布をだして29800円支払う。マッチの中に見た幻想には七面鳥の丸焼きがある。トンネルの奥の廊下の先の扉の中の女はディオールを捨てて、タンスの一番上の引き出しの奥にたたんであった赤ずきんを取り出して、カゴに林檎のパンとワインを入れて、こつんこつんとアスファルトを踏みしめて歩るき出した。彼女は、おばあちゃんの墓参りに行くらしい。

 

 読み終わってから、あまりの意味の分からなさにぞっとした。

 当時どういう気持ちでこれを書いていたのか全く思い出せない。

 一年経ったから、今の自分はもう少しまともな文章を書けるようになっているはずだと希望を込めて最近書いたものを読み直した。

 

『日記』

 必ず目覚めることが人生の課題になっている。起きる、風呂に入る、換気扇の下に立つ、スーツに着替える、髪型を整える。前髪を、気にする。鏡に映る前髪は、これは演じているようでもある。カメラ、アクション、前髪は眼球の前で演じているようでもある。監督は覚めた目で見ている。
 通勤の電車に乗る、スーツ姿の人々が椅子に座っている。時々大きなバックパックを股の間に置いた旅人が混ざっている。旅人の肌は浅黒く焼け、Tシャツはくたびれている。獣の柄の皮を纏った肉食獣が混ざっている。麝香のにおいをさせた肉食獣はより強い革で武装し、周囲を睥睨している。読書中のおばあちゃんが混ざっている。文庫本は陽に焼けていて手触りが良さそうに見える。学生が混ざっている。スマートフォンがぴかぴか光る。妖精が混ざっている。妖精はくすくす笑っており、軌道を擦る車輪の震動と妖精の笑い声だけが車内にひびいている。みんなどこかへ行こうとしている。AからBへ。BからCへ。そうしてCからBへ。BからAへ。移動距離・時間・費用のグラフが少しだけ伸びる。Zまでの距離・時間は人生の移動結果(トータル)が伸びた分だけ少し減る。移動結果を取り込んだ解釈機が概念Xと概念Yを出力する。概念Xを採用すると微笑む。概念Yを採用するとうなだれる。データの量が多い方を真実Ωとして採用するアルゴリズムを用いて、概念X<概念Yの時、真実Ωを真実Σに変換する要素は次のうちどれか。僕は世を儚みウイスキーの瓶を抱えながらシャワーを浴びた。僕はトゲトゲのついた肩パットを装備して髪型をモヒカンにし、バイクに乗ってヒャッハーと叫んだ。僕は白い毛むくじゃらの犬と目が合い、くもりなき眼で見つめられたため微笑んだ。
 会社に着くと仕事をする。他愛ない話をする。「台風がくるみたいだよ」「また台風がくるんですね」「すごく美味しいラーメンなんだよ」「ラーメンは美味しいですね」「奥さんが怒っちゃったよ」「奥さんを怒らせないようにしないとですね」「疲れたよ」「疲れましたね」「もう誰も信用してないよ」「仕方ないですね」「夜の次には朝がくる」「あなたは心の太宰!」「大人とは裏切られた青年の姿です」「そうかもしれないですね」「生まれてすみません」「仕方ないですね」「諸君、私は戦争が好きだ、諸君、私は戦争が好きだ」「あなたは心の少佐!」「スクラップアンドスクラップ」「あなたは心の」「あなたは」「ぼくは」ブレイクスルーしますか? →はい いいえ 「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」インナーチャイルドをだっこして誰もがパソコンの前で血の気の無い顔をしている時、真実Ωを真実Σに変換したいと思うことは難しい。お疲れ様でした、と述べて仕事フロアを出ると、都会にはにわか雨が降っていて、灰色の空を見ると故郷を思い出した。廃墟のような町だった。人が誰もいない町だった。氷の浮いた川に白鳥がいて、彼らは丸めたティッシュみたいな格好をして休んでいた。川に近づくと、えさをくれる人が現れたと思って白鳥がへらへらと鳴きながら水面を滑ってやってくる。薄い鉄の板をこすり合わせたような、壊れたラッパみたいな、へらへらした鳴き声だ。りんごをあげてきなさいと母に言われて小さく切ったものを持って川岸に行き白鳥にりんごを投げると彼らはばくばく食べた。パンも食べるし、手にも噛み付く。くちばしにはヤスリのような細かい凸凹があって、噛まれるとざらざらして痛い。りんごが無くなったのが分かると白鳥は川の真ん中のあたりに行ってしまう。僕は家に帰ることにして電車に乗る。駅からマンションまで歩いていると、中華料理屋と駐車場の間の狭いスペースに犬小屋があって、そこに白い毛むくじゃらの犬がいる。日差しが強い日には犬小屋の影に寝ている。犬の前を横切ると、犬は顔を上げて僕を見る。微笑む。赤ん坊と目があったときと同じように、そうしなければならないという衝動のままに微笑む。光のもとに影がある。どちらか一方だけを見つめ続けるのはフェアじゃないんじゃないかと僕は考えた。川岸を歩いていると日が暮れて行った。オレンジと紫色の光が空を埋め尽くした。コウモリが飛んでいるのを東京に来てはじめて目にした。馬はテニスコートを見ていた。古道具屋が修理した東欧のネクタイピンを購入した。パンの袋を開いた。蝉が仰向けになっていた。耳栓をつけて眠った。満員電車の中、ピアノの曲が流れていた。生き物がAからBへ移動する。BからCへ。最終到達点Zへ移動しようとしている。火を運んでいる。熱が伝導する。Aに戻って休む。風呂に入ってご飯を食べてベッドに入って眠る。それから人生の課題に取り組む。

 

 全然変わっていなかった。

 こんなに絶望したのは久しぶりなので僕は嬉しくなった。

 でもまともな文章を書こうと思った。