夜の空気

 K氏と夜の都会を歩いていると、僕は都会に住んでいるのだなと、別段何の感慨も抱かずに発見をする。ああここは故郷じゃないんだなあと考える。思えば遠くに来たものだと、そこまで考えてようやくちょっとしたノスタルジーの片鱗のような思いが姿を現す。その姿も茫洋としている。
 都会の夜の空気は、昼よりも透明で、少し澄んでいる。人も車も交通量が減るから、どこからか巡ってきた真新しい空気だから、たばこの看板を照らすライトや、信号機のLEDや、マクドナルドの店内から漏れるオレンジ色の光が、とてもはっきりと美しく見える。
 K氏は例によって無理に話題を探したりしないため、大通りをゆく車の走行音や、自らの発する靴音が大きく響く。光と同様に、ひとつびとつの現象が際立って、だから余計に物思いなどが深くなるのだろうか。夜景を見てロマンかつティックになるのと同様の理由で、ベッドの中で眠れなくなることは自然だった。
 その昔、僕はたしかに憧れを抱いていた。仕事が終わった後、親しい同僚とファミレスで、またはカフェで、食事をしたりお酒を飲んだりして、他愛ない話をすること。愚痴でも、もっと渋い社会や人生の話でもよくて、肝要なのは退社後にそのまま、友達のように出かけるということ。大人になったら勝手にそんな状況に巻き込まれるのだろうと思っていたけれど、一緒にご飯を食べようよと誘ってくれるような人はほとんど現れなかったし、僕も誘うようなことはしなかった。そういう淡白な関係の方が、案外多数派だと知るのには時間もかからなかったけれど、そんな気持ちがあったことだけは今もきちんと覚えている。
 K氏は僕をインドカレー店に連れてゆき、ものすごく大きなナンのついたチキンカレーをおごってくれて、ゴルフ仲間がチートをして喧嘩をした話などもしてくれて、ウエイターのおそらくインド人の男性は、ものすごくむすっとした気難しそうな人で、すぐ近くのテーブルの酒気を帯びたパーティーの方々が、ものすごく大きな声で「ど根性ガエル」の話をしているのが、それでどうしてか随分盛り上がって大歓声を上げているのが、夜の東京だなあって再び記憶に上書きされる。僕は全然この環境に慣れていない。何度見ても驚くし、何度見てもきれいだなと思うし、うるさいなと思うし、澄んでいるなと、ノスタルジーに至るまで、夜の空気と同じように心も巡っている。
 出します、と僕が言うと、じゃあ次の店でコーヒーおごってよと、すかさずそういう言葉の出る大人のK氏と、英国式のバーに入って、大人のK氏はオレンジジュースを飲んでいた。僕はジンジャーエールを飲んで、11月って特にイベントが無いから、旅に出るしかないんですよねと言った。壁際でひとり、たばこを吸いながらグラスをみつめている女性の、すぐ真上に設置してあるテレビにはラグビーの試合が映っていて、入り口のドア付近に固まっている英語を話す集団の硬質な低音にかき消されそうな声でK氏は、仕事にかまけてる間に1年が終わるなんて、たまったもんじゃねえよなと言った。仕事なんかしてる場合じゃねえよな、と言った。
 僕は仕事をしていない生活を想像してみた。お金のいらない世界で、朝起きるとテーブルの上にお駄賃と手紙があって、どこかへ行かなければならないとか、何か役に立つことをしなければならないとか、そんなことから遠く離れて、花を食べて生きる。そんな生活をしていた頃、ある想像をした。ベッドに寝転がって本を読みながら、日がな一日、本を読みながら、たとえば僕が大人になって働くことがあったら、仕事の終わりに同僚と、食事にでかけたりしてみたい。