関係のない爆弾

 家のチャイムが鳴ったので、ドアについているのぞき穴をのぞいた。すると魚眼レンズの向こうに悪鬼羅刹のアキラくんが立っているのが見えた。
 アキラくんは「こんにちは、かわいい子羊です」と猫撫で声を出した。嘘をついているのだ。しかもすぐばれてしまう嘘を、堂々とつくのだ。やはり悪鬼羅刹である。
「アキラくん、帰ってください。僕は忙しいのです」
 鍵を開けずに応える。実際、すごく忙しかったのだ。
 時刻は朝の6時で、僕は今シャワーを浴びてスラックスを履いたばかりで、着替え終わったらすぐに家を出て会社に向かって、電車の中では読みかけの本を読んで、とにかく忙しいのだ。
「ここを開けろ。さもなければ、大暴れをしてドアを壊して、不快なものをまき散らし、近隣の住人に迷惑をかけて、お前の名誉を著しく貶める」
 なんと恐ろしいことを言うのだろうか。僕はネクタイを締めながらぶるると震えることしかできない。かわいい子羊は、彼ではなく僕ではないか。
「アキラくん、そんなことはやめなさい。僕は今、本当に急いでいるのだよ。大体ね、きみが悪いことをしたら、警察はきみを捕まえるのだよ。きみが不利益をこうむることになるのだよ」
 ネクタイが曲がっていないか、鏡でチェックしながら、ドアに向かって大きな声で言ってみる。
「俺は悪鬼羅刹なので警察なんか全然怖くはないし、人に迷惑をかけることが存在理由なので、急いでいる人を邪魔するのは俺にとって良いことなんだぜ」
 アキラくんはオアハハと高笑いをして、ドアをどんどん蹴っているようだ。
 とんでもない悪意だ。
 僕は焼きたてのトーストにいちごジャムを塗りながら、深く悩んでいる。アキラくんを中に入れれば、おそらく要求はエスカレートし、もっと良くないことが起きるだろう。しかも会社に遅刻してしまうだろう。もし彼をこのまま放置していれば、しびれを切らした羅刹が、先程述べたような悪いことをして、たくさんの人に迷惑をかけるかもしれない。一体どうすればいいのだろうか。一体どうすれば。
「自分、”悟り”いいっすか……」
 そんな声がして、気がついてみると隣に諸行無常のハラミツさんが佇んでいた。
「ハラミツさん、いつのまに中に入ったのですか」
 僕が驚いた声を出すと、ハラミツさんは薄く目を開けて、
「すべての人の中に仏性があるんで……というか無自性なるが故に空なんで……」と、ぼそぼそ声でよくわからないことを言いました。
「いや自分のことは、いいす。自分、あの悪鬼羅刹を引きつけるんで、会社に行ってくださいっす」
 どうやらハラミツさんは僕を助けるために現れたらしい。
 僕はお皿を洗いながら「お願いします」とお願いした。
 ハラミツさんは玄関のドアを開け、アキラくんと何やら口論をはじめたようだ。
 アキラくんはハラミツさんを困らせようとするが、聞いているのだか、聞いていないのだか、ハラミツさんはのらくらと受け答えしている。
 二人の力は拮抗しているのだろう。アキラくんは、悪行をすることによって失うものは何もないのだし、悪いことをすると気持ちが良いという、生粋の悪だからどんなことでも出来る。
 反対に、ハラミツさんは、悟りによって諸行無常が分かっているから、やはり失うものは何もないのだから、悪意がハラミツさんを困らすことはできない。
 アキラくんは欲望がそうであるように、どんどん過激にエスカレートしていくけれど、ハラミツさんはいつまでもフラットで振幅を吸収してしまう。
 出勤する準備を終えた僕は、革靴を履いて外に出る。それから家の鍵を締めて二人の様子を眺めた。
 アキラくんは廊下の壁によりかかり、ハラミツさんの悪口を言っていた。
 ハラミツさんはアキラくんの隣で、ぼうっとしていた。
 そこへ爆弾魔がやってきて、二人の間に時限爆弾を置いて行った。
 本当に、こういうことはよくある。
「爆弾だーーッ! 爆発するぞーーッ!」
 僕は叫びながら、一刻も早く危険から逃れようと、階段を駆け下りた。
 1階に降りる最後の1段を飛び降りた時、左足をくじいてしまい、僕はエントランスの集合ポストの前に転がった。足首がじくじくと傷んだ。肘を擦りむいたので、ひりひりした。派手に転んでしまって恥ずかしいという気持ちもあった。しかし今はそれどころではない。早く立ち上がり、このマンションから出なくてはならない。顔を上げて、出口のガラス戸を睨むと、外は朝の光で美しく輝いていた。暗い廊下から、危険が満ちる建物から、脱出するのだ。あの光に向かって、立ち上がるのだ。細かい砂の浮いた床に手をついて上半身を起こした時、ガラス戸の向こうを巨大な鳥が横切った。左から右へ、羽をわずかに広げ、頭を上げて、太い脚で地面を蹴って走る、大きなダチョウである。数秒後に、作業服を着た大人が二人、サバンナの足音を追って駆けて行く。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、もっと遠くで複数のクラクションが鳴らされる。女子中学生がピンク色の封筒を下駄箱に入れる。フライパンに卵を落とす。自動販売機に硬貨を入れる。イグニッションキーを回す。バッタが跳ねる。かもめが水面の近くを滑空する。風が吹いて、花が揺れる。蕾が、開く。小さな爆発音がして、画面の下から、ゆっくりとTHE ENDという文字が上がってくる。文字が画面の中央に留まった時、僕は立ち上がり、膝と胸の砂を払って、頭をかきながら、出口に向かってよたよた歩いていく。