神とダーウィンとヒッチコック


 夏は図書館だと思っていた理由を、図書館の窓際の席で不意に思い出し、エアコンもない部屋のベッドに転がりながら一日中本を読みふけり、気が向くと窓の外を眺めて過ごした、これっぽっちも夏めいていない夏休みの孤独が、今もまだ心の片端に熾のようにくすぶっていた。

 町の図書館が歩いて通える距離にあることが、少し不思議な気持ちにもなるけれど、それがもし身近な存在であるならば僕はずっとそこに居たい、と考えたこともあったはずなのだし、生活や仕事によって見えなくなってしまった古い思いを、叶わなかった願いを、今になって成就させるために、子供心の熾が、大人になった僕に思い出せと語りかけていたのかもしれない。

 夏休みの二日目は、そうして図書館に足を運び、エアコンの効き過ぎた室内で、子供向けに編集された旧約聖書を読むことで、大変有意義な時を過ごすことにもなったけれど、”遠くで誰かが呼ぶ気がするのは何故”と奥田民生さんが歌っている通り、蝉の声がとけた真っ白な光を窓の外に感じると、どこかへすうっと歩いて行きたくなってしまう、家にいるのに「帰りたい」と叫ぶ子供や、往くあてもないのに町を突き進んでしまう老人の「帰りたい」という気持ちが、一体どの場所を差しているのか、考えてみると、僕は切なくて仕方がない。帰りたいし、どこかへ行きたい、と思うように人間が出来ていることの、本質だけが理由もなく訴えかけてくるとき、宇宙ではじめて生まれた生き物の孤独がわかる。

 創世記の中で神は朝と夜を作り、海と陸を作り、生き物を作り、アダムとエバを作る。二人は蛇に騙され知恵の実を食べてエデンの園を追放され人間の世界を作る。その子孫が脈々と現在に繋がっていて、神に守られた人と、神に見捨てられた人と、それ以外のたくさんの人が現れ、イスラエルの民の受難と、それを乗り越えていく姿が、神の助力も含めて連綿と続いていく物語から僕が読み取るのは、人間という種族の厚かましいほどの頑丈さだった。あらゆるものを糧にして生き延びることをする意志の強さだった。愚かで忘れっぽくてわがままな種族の末端を担う僕にも先天的に宿っているタフネスを、たまに再認識してみる。

 神がお造りになられた最初から完璧な物、に意義を唱えることになったガリレオ・ガリレイの地動説から、さらに200年も経ってからチャールズ・ダーウィン自然選択説を唱えた時、土に化石が埋まっているのではなく、化石が埋まっている状態の土を神が作った、と信じていた人々が多かった、と伝記に書かれていて、その論理のエキサイティングさに僕は頭がくらくらするほど嬉しくなる。生き物が死んで骨になり、それが土に埋もれたのではない、と考えられることが、今の僕には信じられないから、当時の人と同じ気持ちに僕がなっている。神としか呼びようのない何かが世界の全部を作って、そのメカニズムをリバースエンジニアリングする人たちの途方も無い仕事は、たとえそれを目にすることができなくても、僕を生かしていた。

 人間が神と、悪魔とをなんとなく忘れて、人の状態に名前をつけて科学だと決めつけ安心をする、天罰でも業でもなく脳の分泌物の異常が原因だとしておかしな行動を取る人を、ヒッチコックは『サイコ』という映画の中で描いた。異常なものの原因を科学が解明し、人間の薄暗い部分が衝撃的な映像で表現される1960年の作品の中で、包丁を振り下ろす殺人鬼のもったりした動きが、約60年後の僕には微塵も恐怖を感じさせないけれど、むしろちょっと微笑んでしまうけれど、殺人を犯すっていうのは悪いことだなあとか、人が死んでいる姿は気持ちがよくないなあとか、そんな鈍麻した感想しか抱けないのは、信じなければいけない物語がひとつもなくなったからかもしれないし、神とそれにまつわる人々の物語から派生した数々の物語があまりにも多すぎるからかもしれない。

 一日中読書をして、映画を見る。
 ふと、どこかへ行きたいな、と思う。
 今はもう、行こうと思えば、どこへでも行けるんだけれど。
 行きたいな、と思うところはいつもだいたい、物語の中だ。