真夏の図書館

 夏といえば図書館だ。
 しかし、夏と図書館を結びつけて考えるようになったきっかけが、どうしても思い出せない。
 どうして夏といえば図書館だ、と僕は思っているのだろうか。
 夏にうってつけの場所は、他にもたくさんあるはずだった。
 たとえばプールだった。他には花火だった。登山も夏らしい印象だ。山では昆虫採集もはかどるだろう。海でもよいし、スポーツ観戦も夏めいている気がしないでもない。そして図書館だ。
 図書館はオールシーズンに対応しているので、特別に夏っぽいとは思わないんだけれど、夏になると本を読もう、図書館に行こうと思ってしまうし、その連想には特に害がなさそうなので図書館にゆくことにした。

 自宅から5kmほど離れた場所に図書館はある。
 正午。真夏日の炎天下、顔と腕と足に日焼け止めを塗って、真っ白いTシャツを着て、短パンを履いて、とても大きなつばのついた山登り用の帽子を被って、サンダルを履くと、夏休みの小学生になったような気分がして、なんだか気まずいのだけれど、悪いことをしているわけでもないのだし、と何故か自分に言い訳をしながら川沿いの道をずるずるぺたぺた歩いてゆく。
 川沿いの道は、とんでもない熱量の太陽光線を反射して眩しくて、目を細めていないと水晶体が蒸発して目玉が一回り小さくなってしまうんじゃないかと思うくらい、あるいはただ歩いているだけで華厳の滝のようにミネラルを放出してしまい、もしくは騒がしく念仏を唱える小さな昆虫達のざわめきに目眩を感じ、やっぱり少し謎の獣臭がする。

 川沿いの道から橋を渡ると、銀杏の並木が続く道に出る。
 車通りも人通りも少なく、道の両脇に建っている人々の家もどことなく古めかしくなっていくから、耳に届く音は本当に夏の虫の声だけになっていく。ポストは色あせたオレンジ色になっていて、公衆電話には草のツルが絡んで古代遺跡みたいになっていく。駄菓子屋の廃墟がシャッターを下ろしていて、原動機付自転車即身仏が塀に寄りかかっている。銀杏が腕を広げて陽の光を浴びている、その影を選んで進んで行くと、不意に並木道も途切れ、細いアスファルトの道を一本挟んで、森に続く道が現れる。
 森の道の入り口には、とても小さな看板が立っていて、図書館と書いてある。

 森の道の空気はひんやりとしていて、冷蔵庫の中にいるみたいな感じがする。鳥がちぇーちぇと鳴いている。他にもわっかわっかと鳴いている者もある。空気が澄んでくる。意識が拡散して、まるで自分が森になったような気がしてくる。土と木の枝を踏みしめて、ずるずるぺたぺた歩いていくと、図書館が見えてくる。木造の、古い校舎みたいな建物だ。臙脂色の屋根で、壁は暗い木材の色そのまま。四角い窓はなんだかすぐに割れてしまいそうに見える。ひさしのついた正面玄関の扉は開きっぱなしで、靴脱にサンダルを並べて中に入ると、途端に懐かしい木と本の匂いがする。貸し出しカウンターの奥は無人で、館内にも人の気配は無い。ただ書架に収まった無数の本が読まれるのを待っているばかりだ。喧騒から遠く離れた森の奥の図書館は、小さな生き物達の声で騒がしいけれど、僕には不快では無かった。どんな本を読もうかなと本棚の間を回遊していると、窓際の閲覧席に小さな人影が見えてにわかに驚いた。小柄なおばあさんだ。白いやわらかな素材のドレスのような服を身につけたおばあさんは、白髪を後ろで一本に結っている。手元の本に目を落としたまま、僕には気づかないようだった。まるでおとぎ話の中の、高貴な家柄のおばあさんみたいだったから、失礼にならないよう、すぐに目をそらして本棚の森にもう一度入っていく。

 僕は本を手に取り、本棚の脇に置いてある椅子にかけて、ページをめくる。
 とても不思議なお話の本だった。神様がいて、朝と夜を作る。それから水を上と下に分ける。
 すぐそばに人の気配を感じて、本から顔を上げると、さっきの上品なおばあさんが微笑みながら立っている。
 僕は思わず本を閉じ、体を固くしてしまう。
 おばあさんは僕の警戒を解くように、とてもやわらかい口調で言う。
「本がお好きなの?」
 僕は曖昧な笑みを浮かべてしまう。どう答えればいいのか分からなかった。
「好きです」
 どうにか言葉をひねり出すと、おばあさんは小さくうなずいて、
「そう、うれしいわね」と言った。
 僕はおばあさんにも何か言うべきだと思い、
「あなたも好きなんですか?」と言った。
「本は大好きよ。私は本の神様だもの」
「えっ?」
 僕が聞き返した時にはもう、おばあさんの姿はすっかりかき消えていた。
 あとに残されたのは、小さな者達の声と、本棚いっぱいの物語だけだ。

 夏は図書館に行きたくなる。
 それはきっと、目に見える世界が真っ白に発光して輪郭を失い、逃げ水がゆらめき、亡くなった人がきゅうりの馬で帰ってきて、熱のために少しだけ機能を失った脳が、物語と現実の狭間を見えにくくするからではないだろうか。

 ということを考えながら町の中にある普通の図書館に行ってきて、エアコンが効きすぎて寒かったので、すぐに帰ってきました。

 

 

 

 

 

f:id:sisimi:20190804234118j:plain