グレートホリデイ
いわば休日の王である。
一定の間隔で続いていくだろうと思われたあれやこれやは便宜的なバナナの皮一枚でバランスを崩壊させ目眩と共にアイデンティティーが瓦解する。良かれと思った行動が(仕事の場ですれ違いが発生し)災いとなってハートブレイクを催し、パンドラの箱から最後に出てきたのは希望だったことは忘却の彼方だ。寓話が頭内に充満し、誤解を曲解して弁解をはじめる。巡る言葉の中に答えはなく、自らの作り出した迷路の中で「ここではないどこかへ行きたい」などと独りごちる時、憐れな精神年齢を嗤う者は久しからず。ひとマス進んで強くなりたいと願い、ふたマス進んでこのままで良いのだと結論し、さんマス進んで大体全部覚えていない。生きていることが死んでいくことなら生の目的とは何か、人々は何故生きているのかと敷衍した脳内スペースは最終的に宇宙に進出し、超新星爆発した想いは今やグロテスクな愛憎となって眠い。そうしてまぶたが重たくなってようやく的外れな思考に気がつく。己が正しいと信ずる道を進みなさい、と僕は僕に告げ、未来の頑張りに期待して本日をシャットダウンした。
暑い夏の昼下がりのお日様の光が鋭い針のようだったから散歩に行こうと決めたその日はグレートホリデイ。カメラをぶる下げてマウンテンアドベンチャーハットを被ってサングラスをして日焼け止めを露出した肌に塗りたくりスニーカーを履いておんもに飛び出す僕という名の衝動は夏を希求している。形而上的なスイカバーに望みを託している。サコッシュの中には妖艶な五百円玉が一枚入っている。焼けた道を歩いているとひっくり返った蝉がセミファイナルの準備をしている。足が開いている蝉は生きている蝉、足が閉じている蝉は死んだ蝉。生きて歩いている僕は住宅街をあやしい格好で通り過ぎ、自転車をこいでいた下着姿のご老人の直視にもよく耐える。アスファルトから立ち上る陽炎はさながら笑気ガスのようだ。ドブ川にかかった橋が熱でたるみ異臭を放ち、生活排水を食らって丸々と太りミュータント化したボラの集団が触手をうまく使って丘に這い上がってくる。地球が放熱している。木立の間に幽玄な黒い影が立っている。僕の横を走り抜けていったランナーは急にTシャツを脱いで半裸となって荒々しく息をついて自由の片鱗を体現してドブ川に飛び込む。そしてランナーは触手をうまく使って丘に這い上がる。
熱が見せる幻だ。全ては暑すぎるがゆえの夢幻である。スニーカーの底が溶けそうな河川敷の道を歩きながらいつまでも聞こえ続けている野球少年たちの叫びを聴いていた。たくさんの蝉の声の中に蝉の幽霊の声もあるだろう。虚空にカメラを構えると青空の中におじいちゃんとおばあちゃんがダブルピースしている。10kmの灼熱の散歩道。これほど爽やかな一日はきっと無い。帰ったら星の王子さまを読もう。帰ったらフジロックで平沢進さんを見よう。そんなことばかり考えているとき、他愛ない一日がまるで偉大な休日であるように思われてならない。足を引きずって歩き続けるうちに意識が本格的に朦朧としてくる。僕は僕の幽霊で、僕の肉体はまだエアコンの効いた部屋の中で静かに寝息を立てているのだ。そうして部屋のドアを開け、風呂のドアを開け、中に飛び込んで水を頭からひっかぶった時、はっきりと自分が生きていることが分かる。深い海の底みたいだ。