音楽とインターネット

 家に帰ってきて、まずはじめにパソコンでインターネットブラウザを立ち上げる。
 youtubeでいつもの音楽を聴く。
 いつも聴く音楽は、個人的な流行を表している。
 それは生活の中で移ろってゆく感情の中心位置がどこにあるのかを表しているようにも思われる。
 前向きな時には明るい曲を聴いているようだし、後ろ向きな時には暗い曲を聴いているようだ。
 ここ最近は歌の無い音楽をよく聴く。
 強いリズムだけが途切れることなく延々と続いてゆく音楽は、新しい気持ちを感じさせない。発見も少ない。感動も無いことが多い。単純な興奮や、落ち着きだけがある。
 自然の中には美しいメロディーというものがたぶん少なくて、雨音や足音、虫の声や鳥の声、心臓の鼓動など、一定のリズムが続くものが多いから、ずっと続いてきた拍子が生き物の僕を落ち着かせたり、活気づかせたりするのだろう。
 メロディーに感動を覚えるのは、それがきっと感情が高まった時に発せられる音だからで、たとえば狼の遠吠えが和音になっている時、そこに寂しそうとか悲しそうとか、そういう連想をする。白鳥が集まってあの金属質な叫び声を上げている時にはただ単純に、彼らは興奮しているのだとか、思う。いずれにしても生き物は不必要な時にはメロディーを奏でない。それは怒っている時や、悲しい時や痛かった時、仲間を呼びたい時、何かを伝えたい時に発せられる。だからメロディーから、リズムにはない意味を感じるのは、生き物として当然なのかもしれない。

 インターネットとはなんだろうか。
 僕にとってインターネットは、仕事の一部を支える道具であり、また楽しみのひとつでもある。インターネットとはメールソフトであり、動画配信サービスであり検索エンジンである。
 そしてこのブログでもある。
 ブログであるということは、つまりあなたでもある。
 しかしあなたはインターネットだろうか。あなたはインターネットではなく、おそらく人間だ。ということは、インターネットは人間ではないということだ。
 僕は手紙を書き、電話をかけ、FAXを送信し、手旗信号を送り、焚き火の煙を利用してここに人間がいるということを知らせることができる。インターネットはきっと、そういった種類の通信手段に過ぎないのだろうな。
 あまりにも色々なことができるから、まるでインターネットのすべてが一連のコンテンツであるように感じられることがあるけれど、インターネットの向こうに、僕と同じ人間がいるということを忘れてしまったら、きっと人生はつまらなくなる。
 インターネットで旅館を予約することや、服を買ってみることや、文章を読んでおもしろがることや、絵や写真を見ることや、物語を共有すること、市役所の営業日を確認することや、恐竜の化石について調べてみることなどは、全て人間と人間を結んでいるだけのことで、その中間にあるサービスが、まるで人間を人間以外に見せようとしているだけのことなのだろう。

「インターネットは世界じゃない。インターネットが世界だと考えると、世界は狭くなる」
 ブログだったかTwitterだったか失念したけれども、そのように書いている人がいて、たしかに情報を自分の好みで選別できるインターネットを世界だとしてしまえば、世界は自分の延長でしかなくなって、ひとりよがりでつまらないものになってしまうんだろうなあと思う。