日が暮れてゆくこと
洗濯機を回している間は、明確な待ち時間よりも(たとえば駅のホームで電車を待っている時間や、人気のラーメン店の行列に並んでいる時よりも)やや自由の多い、制約の少なさが魅力で、そういう曖昧な拘束時間は幸福を感じるのに適しているのだと思う。
圧倒的な忙しさ、体力的・精神的消耗の中に幸福を見出す人はきっとあまりいない。そのような時間は時として充実を感じさせるけれど、その時間を前提として、実際に幸福を感じるのは多忙から開放されたあとの洗濯機を回している時間なのではないかと思う。
カフェでミルクティーを飲む時間もおそらく同様だ。
喫茶店で人は一体何をしているのだろう。無為に時間を過ごしているような気もするし、無為であるという前提でミルクティーの入ったカップを手にしている時には逆説的に何もしなくていいという幸福が際立つのではないだろうか。
たしか寺山修司さんだったと思うけれど「人は人生の休憩時間に読書をする」という意味のことを書いていたように思う。病気をしてベッドから動けない時にたくさん本を読んだ、という文脈だったと記憶している。制約の少ない待ち時間、ただ待ってさえいれば物事が解決していく種類の待ち時間は、おそらく幸福を感じるのに適していて、その上で読書とは、そのような時間に行われるべきなんだろうとぼんやり考えた。
洗濯機がごうごうといつもの音を鳴らしている。洗面所に設置された彼は、機嫌が悪いと世界の終わりを感じさせる轟音と震動を発して、あたかも爆発寸前であるかのような音を立てて暴れるのだけれど、今日は機嫌も麗しいようで、自らの仕事を楽しむ気配すら感じさせた。
だから僕はリビングに置いてあるごろ寝マットレスの上に転がり、ケン・リュウの傑作短編集3を読んでいる。体を伸ばしたり、あくびをしたり、ペットボトルのお茶を飲んだりする。窓の外は晴れの明度で、耳を澄ませば洗濯機の音の向こうに蝉の声が聞こえてくる気がする。
そうして待っていると、やがて眠気がやってくることは自然の摂理で、眠りたい時には眠ってもいいのだし、お腹が減ったら好きなものを食べてもいいということが、洗濯機が回り終えるのを待つ時間だった。
1秒間に1秒間分、日が暮れてゆくこと。
休憩時間によく分かること。