銭湯

今日は始めて地元の銭湯に行った。

温泉ではなく、銭湯だ。

この町の色々な場所を見ておこうと思った。

それに、あんまり人もいないだろうなと思っていた。

最高気温は28℃。

ひどく暑かったから、湯に浸かったら気持ちいいだろうなと思いながら日差しの中を歩く。

大きな道路の向こう、住宅街の真ん中に、なつかしい煙突が突き出ている。

銭湯の店構えも古めかしく、併設されたコインロッカーはしんと静まり返っていた。

番台には、とても静かなおばあちゃんが座っていた。

「大人です」と言って500円払う。

「はい」とおばあちゃんは言う。

それ以上のことは何も言わない。世俗を超えたところにいる人みたいだ。

ベンチには老人が二人いて涼んでいる。

その横を抜けて年季の入った脱衣所に向かった。

服を脱いでお風呂場に向かうと、洗い場にはたくさんの人がいる。

全員が老人だった。

僕などはひよっこだ。子供料金でよかったかもしれない。

一番端の席で身体を洗ってお湯に浸かってみる。

めちゃくちゃ熱い。

肌がびりびりする。

背後の壁にペンキの絵が描いてあって、それをじっくり見たかったけれど、いちいち振り返っては変かなと思い、ぼうっとすることにした。

老人たちはさっと身体を洗い、さっと湯に浸かり、さっと出ていった。

銭湯というのは、ゆっくりお湯に浸かろうとか、リラックスをしようとか、そういうものではないのだなあと思う。

温泉とは違うのだ。

肌が真っ赤になったのであがることにした。

脱衣所でぐったりして、扇風機の風を浴びながら、たたずんでいた。

老人たちはさっと着替えて出ていった。僕などよりよほど素早い。

体が適度に冷めたころ、銭湯を出た。

コンビニでビールを買った。

きんきんに冷えたビールだ。

象徴的なうまさであった。

 

感覚

 今日も出勤だったんだけれど、会社には本当に僕しかいなかったし、僕しかいないという事態は以前から通常の業務に組み込まれていたことだから特にどうのこうのと考えることはないんだけれど、僕がひとりで放心しているだけなのに業務に支障が出ないという点についてじっくり考えてみると、おそらくもともとたくさんの人が出社する必要なんてなかったってことなんだなあ。

 会社に行って働くというのが、今となってはまるで因習であったかのような、そして今、弊害が取り除かれたあとのような、ごく静かな平日の職場はうららかでのんびりしている。
 例のごとく腕立て伏せとスクワットをして過ごし、たまに少ない仕事をして、グーグルマップで世界の道を歩いてみたりする。時にはスマートフォンで読書をする。最近はハンス・クリスティアンアンデルセン全集を少しずつ読んでいるのだけれど、文章表現に特徴があって非常に面白い。童話内の文章表現の面白さというと、宮沢賢治さんにもやはり同じことが言える。この共通点はたぶん偶然ではないと思うのだが、童話をそれほど読んでこなかったので、たいしたことは言えない。でも感覚が僕にうったえかけている。

 お昼になったらひとりで休憩室に向かい、ひとりでご飯を食べる。すごく静かだ。空気がいつもより密度を増して、ずっしりして、青黒くなっている感じがする。僕は人のいない職場をしょっちゅう歩き回っている。何か異常がないか確かめている。作業部屋の機材が、きちんと準備出来ているかを確かめている。そうして物言わぬ機械の間をゆっくり歩いていると、墓守になったような気分がした。機械を見て回るだけの機械の僕はラピュタを徘徊するあのロボットみたいでもある。

 退勤後、本の街神保町をたずねた。
 特に用事があったわけでもないんだけれど、僕はどうにも靖国通りのあたりを歩き回るのが好きでしょうがない。
 ぶらぶら歩いて、結局は書泉グランデ三省堂に吸い込まれる(意思とは関係なく吸い込まれる)。
 今日は三省堂村上春樹さんの新しい本を見た。
 パッと見ではどういう趣向の本なのかよくわからなかった。ぱらぱらと読んでみると、春樹さんが持っているTシャツの写真が載っていて、Tシャツにちなんだ短い文章が載っていた。Tシャツも、また文章も、まったく固いところがなく、気が抜けていた。なんだかよくわからない本だなあと思い、レジに持って行った。
 レジに向かって歩いている時、足が一度止まりかけた。僕はこの本を買うのか!? なんで!? と思った。
 なんでだろう。
 ほんとうにすごく気の抜けた趣旨の本なのだ。
 でも僕はなんだかそれがほしいのだ。

 

熊のぬいぐるみ

 ひさしぶりにモヒカン先輩の顔を見た。
 緊急事態宣言前と比べても目立つ変化はなかった。
 僕の姿にもあまり違いは見られなかったろう。
 ひさしぶりに顔を見たにも関わらず、そもそもひさしぶりという感じも薄い。
 モヒカン先輩とは事あるごとに電話で情報共有をした。
 おしゃべりもした。
 話したいことがあるというのは、きっといいことだ。
 しかし僕は本当に話したいことがうまく話せない。
 僕が本当に話したいことは、ぬいぐるみを持った男性の話だった。
 彼はピンク色のよれたTシャツを着ていた。
 髪はぼさぼさでひどく痩せていた。
 左手に細長い紙袋を持って、右手に小さな熊のぬいぐるみを持っていた。
 ぬいぐるみは古ぼけていて、わたがしぼんでいるようだった。
 僕は熊のぬいぐるみがすごく気になった。
 それは奇妙に親密な感じがした。
 それは彼が持っているべきだった。
 彼の風貌や気配と調和していた。
 僕はもちろん彼のパーソナルな部分を何も知らない。
 けれどその姿は廃墟のように枯れて、無秩序で、独特だった。
 秩序は人工物の印象を与えるけれど、無秩序は自然を思わせた。
 お花屋さんの軒先の花はきれいだけど、河原のコンクリートを割って生える草は獰猛で、生きている感じがした。
 僕は生きているものについて話してみたかった。
 それは狼の群れの遠吠えのように、熱心に不協和音を奏でることだった。
 意味のないものに意味のないままで衝撃を受けたかった。
 あれはなんだろう、と思っていたかった。
 だから僕はそろそろ、美術館に行こうと思う。

 

イオンに行きました

 同じ場所に留まることで思考が固定され広がりを欠き刺激の減少により欲望が減衰し他者と自らを相対化しなくなるため自我が希薄になり内省的かつ内向的な側面が助長され小さな生活サイクルの中にいるセルフイメージが根付き頭があたらしい発想をやめ円環の理の中で既体験をスキップする処理を脳が実行するので時間の速度はまばたき一回につき体感三分でカップ&ラーメンはもうロング・ロング・アゴー・伸びている・ロング・ロング。

 我慢していたわけではないにせよそろそろよいのではないだろうかという見切り発車的仮説を経てオンザベッドにて行先を模索した際上記の円環理を認知し思考すらもあてどなく脳裏を彷徨っている状況はしかし以前から抱えている小さな問題のひとつでありきっかけを経て思考上に顕在化した「目的の欠如」が社会情勢と合致をみたことでむしろ自分自身が社会現象に含まれていることで安心を得たいがために理屈バーナーで論理溶接をして捏造的帰属意識のマスクで無意識のうちにロンリー考察を覆い隠してしまいたかっただけではないのかと自問自答が結局のところ尋常の自分を召喚することになった。

 長々と意味のわからないことを書いたけれどかいつまんで言うとイオンに行くことにしたのだ。

 家を出たのは14時で町にはにわか雨が降っており新品の靴ひもがほどけやすいスニーカーは不器用に雨に打たれ電車に人は少なく人が少ないという点においてのみ今の状況が続いてもいいという考えが禍の当初より出勤出社を続けていた自分の中に芽生えいかんせん東京の街は人間が凝集し過ぎ酸素不足の懸念により音声のヴェロシティーも控えめ気軽にサルサロックを踊ることもできず犬に話しかけるのも人目をはばかってということで山出しの未開人は肩身の狭い思いを強いられながらデジタル山菜をタブレットで採集したのち大企業マップに打ったピンめがけて瘴気の中を時速4キロで疾走してしまう。

 一階出入り口横のガラス張りのタリーズ店内に座る有閑の諸君らがバガボンドの風情で喜悦の感にほほ肉が盛り上がりこころ震わせて傘を畳みエスカレーターにて三度上昇を繰り返した折眼前に書店が繰り広げられ無目的の結末はいつもそこにあり再会の感動があり帰郷の安心があり形のないものを求めるとき形のない答えでしかそれに応えることができないのではないかと結論をこしらえ厳選した本を二冊購買して鞄に安置し電車を使ってすみやかな帰宅に成功した。

 外出していたのはたったの二時間だけれど心の目が開くのには一秒もかからない。 

 

へんな音

 触れてもいないものが音を立てる。
 あれはなんという現象なんだろう。
 会社の休憩室で寝ていると、どこからともなく「カチッ」と音がすることがある。
 ボタンを押したような音。
「ミシミシッ」と鳴るのはビルが風で揺れているからだけど、「カタン」と何かが落ちたような音は一体なんだろう。
「カチャリ」ドアノブをひねった時の音も聞こえる。もちろん人の姿はない。
 寝ている時には本当によく音が聞こえる。
 起きている時よりもずっと耳がよくなっている。

 先日youtubeで「ひとり暮らしの怖い話」を聞いた。
 その人は眠っているとき、キッチンからコップを置く音が聞こえるそうだ。
 本当にそういう音が聞こえるのだろうなあと思う。
 僕が子供の頃に住んでいた家は、夜になると床を踏みしめる音が聞こえていた。
 寝所のすぐ外の廊下を、足音が行ったり来たりする。足音は夜通し鳴り続ける。
 恐がりの子供だったので、寝ている母を起こして、足音が恐いと伝えたこともある。
 まったく怖がりではない母は、音が聞こえようが聞こえまいが、どっちでも構わんだろうという態度だった。
「音がなんだって、包丁持って追っかけられるわけでなし」
 まったく豪快であった。
 謎の足音の移動は姉も知っていた。僕たちは想像をたくましくして、その正体について考える。
 けれどいつの間にか、その音は僕たちの耳にも届かなくなった。
 それは気のせいなどではなく、間違いなく鳴っている。けれどいつしか脳がノイズとして処理をはじめる。僕はそれを認識することができない。
 そんなどうでもいいことを、忘れたくないなあと思っている。

 今のマンションに住み始めてからは、祭囃子が聞こえるようになった。
 朝目覚め、ベッドの上でぼうっとしている時に、無数の笛の音がする。どこかものすごく遠いところから聞こえてくる。
 朝早くから祭を始めるわけはないし、はじめは気のせいだと思っていたけれど、祭囃子は何度も何度も聞こえてきた。
 いつもどこか遠くでぴーひゃらぴーひゃら笛を吹いている。耳を澄ませていると、やがて音は消える。
 祭の正体は四年目に分かった。
 隣家の住人が換気扇をつけると、外から小さく笛っぽい音がするという、ただそれだけのこと。
 よくある勘違いだった。
 祭はなかったし、祭囃子もなかった。
 僕の頭の中にあっただけだ。