よいこと

 パソコンの前で本を読みながらYoutubeを見ていたんだ。
 面白い本だったので、Youtubeの方はほとんどBGMとなっていた。
 文字を追うことに疲れたので本を伏せて何気なくモニタに目をやった。
 AさんとBさんが話していた。
「Bさんはほんとに面白いですね!」
「私は面白いんじゃないんだよ、すべるのを恐れてないだけなんだよ!」
 僕は、びーんとなった。
 後頭部から腰にかけてまっすぐ棒が突き刺さったようだ。
 なんだかわからないけど今、Bさんはすごいことを言わなかっただろうか?
 すべるのを恐れてないだって? 
 発想がエジソンと同じレベルじゃないか。
 BさんはYoutubeで歌ったり、ゲームをしたり、冗談を言ったりする人で、発明をしたりはしない。
 けれど、どんな道を通ったとしても、失敗を重ねることで、同じところにたどり着けるのかもしれない。
 
 国からマスクが届いた。
 かわいらしいマスクだ。僕がつけたわけではないけれど、ニックネームもついている。
 顔に装着したり、外してベッドの上に放置したり、それを目を横目で見たりして、僕は人見知りをしている。
 ただのマスクなんだけれど、もらう前から意味が多すぎるからだ。
 このマスクが100年後、博物館に並ぶところを想像している。
『100年前の人は、このマスクで疫病から身を守ろうとしました』
 ロマンチックな気分です。

 今日は会社で、腕立て伏せを100回、スクワットを100回やった。
 運動の後はプロテインバーを食べ、サラダチキンも食べた。
 洗顔シートで顔も拭いた。
 そのあときちんと椅子に坐って、時間が来るまで、Fishmansの歌をうたった。
 たのしかったです。

 

3時間

 スマートフォンの天気予報アプリを見ると最高気温は26℃らしかった。外に出ない方が安全だろうと思われた。もし外出したら身体が溶解するかもしれない。まだアスファルトの染みにはなりたくない。たわごとを並べていたい。楽しげな言葉がころんころん出てくればいいんだけどなあと思って、まだ終わっていない今日一日の日記をさきどりして書こうと思います。言葉が思考を作り、思考が性格を作り、性格が行動を生み出し、行動が一分一秒を彫刻して、やがて人生の形に結実するのであります。楽しい言葉を身体に染み込ませることが肝要なのではないでしょうか、ししみ大佐、どうですか。それはまるで茄子の煮びたしみたいなものではありませんか? 言葉と人生というものは……花の種子は鳥に食べられるために甘い実をつけるのです……そして鳥の体内で運ばれ新しい土地に自らの分身を……芽吹かせるのであります。それならばいっそ思考のための言葉ではなく、言葉のために思考してみるのも人生に有益なのではありませんか?

 人生というものがあると仮定して、の話ではあった。と、(ししみ)大佐は思った。
 はたしてそんなに不可思議なものがこの世にあるのだろうか? それ、あると思ってるだけとちがうか? と大佐は懐疑主義的なところがあった。大佐はふくろうのように疑り深い男です。ガリガリ君ソーダ)を食べながら、椅子の上でふんぞりかえっては「あやしい……あやしい……」と呟いてばかりいます。ついさっきも疑わしいことがあったのです。『密着! アメリカ警察24時』というおもちろいティーヴィーショーを見ていた時のことです。とある疑わしい男が自動車でハイウェイを暴走したので警察が停止せよと命令をしました。疑わしい男は停止命令に従い路肩に車を停めました。警察は車から降りてくださいとお願いしたのですが、なぜか渋って出てきません。それどころか「何故降りなきゃいけないんだ」と次第に怒り出すのです。「俺は何もしていない!」警察と男は言い合いになります。恐ろしい怒鳴り合いです。突然男は運転席から飛び出してきました! カメラはブレて画面に何が映っているのかよくわかりませんが、男の手にはナイフのような光るものがちらりと映し出され「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」と警官が必死に叫びました。「止まれ! 伏せろ!」「殺してみろ!」「止まれ! 伏せろ!」「殺してみろ!」そんなやり取りが10ぺんも繰り返されたでしょうか、ついにバァンバァンと発砲音がしました。警官は男の足めがけて銃を発射したのです。おそろしいことです。アメリカの警察はこんなに簡単に銃を撃つんだなあと大佐はびっくりしました。そしてそれよりもびっくりしたのは、男が足を撃たれても別に痛がっていなかったことです。映画なら「うわぁー!」と叫んで地面をごろごろするシーンですが、撃たれた男は足から血を流したまま「殺せ! さあ、殺せよ!」とさらに煽るように叫びます。なんなんだこれは、と大佐は思いました。これは現実なのか? 男は足をひきずってゆっくりカメラに近づいてきます。そのうち応援の警察が来て、男にテーザー銃を撃ちました。テーザー銃というのは非殺傷武器というもので、スタンガンの一種です。これを食らった人は、どんなに鍛えた人でも身体が硬直して動けなくなります。テーザー銃も本当に恐ろしい武器ですが、アメリカ警察24時を見ているとポリスメンはしょっちゅうテーザー銃をぶっぱなします。警察の言うことをきかないというだけでテーザー銃を撃たれます。警察の言うことをきかない、ということが既に罪のひとつになっているからです。これもおそろしいことです。本当に何も悪いことをしていなくても、警察があやしいと思えば、車を調べられたり、身元を照会されたりしなければならないのです。何も悪いことをしていないと主張するとテーザー銃をぶっぱなされます。警察がすぐにテーザー銃やピストルをぶっぱなすのはなぜでしょうか。それは悪い人もごく普通にピストルやライフルを持っていて、機嫌が悪くなると警察に向かってぶっぱなすからです。そして悪い人は「悪いことをしましたか?」と聞かれても「はい、しました」とは絶対に答えません。なので警察は疑わしい人にまずテーザー銃をぶっぱなします。壮絶なぶっぱなしいたちごっこです。憎しみの連鎖です。大佐はもし私がアメリカに行くことがあったら警察の言うことは大人しく聞くことにしようと思いました。それで、話を戻しますけれども、男に向かってピストルをぶっぱなした警官は、スタジオに呼ばれてインタビューを受けました。司会の人が警官に「あなたはナイフ男にピストルをぶっぱなした、これはいい判断だと思います。あなたはテーザー銃を持っていなかった」と言いました。警官は無言でした。大佐はこの時、もしかしたらこの警官はテーザー銃を持っていたのではないかと思いました。本当は持っていたけれどピストルをぶっぱなしたのだとしたら、これも恐ろしいことです。大佐はガリガリ君を食べ終え、そして人間の命というものはなんだろうと考えて、ぼうっとしていました。安い命、高い命、身分によって命の価値が決まったり、行動によって決まったり、美しさ、機能によって命の価値が定められたりしているような気がするが、命というものは平等に大事だと思っていたが、現実にはそうではないみたいだな、文化や貧富によって、線が引かれてしまうものなのだな、と思い、ついに大佐は泣き出してしまいました。大佐は枕を抱き締め、ベッドの上でいつまでも泣いていました。そうして涙が枯れるころ、大佐は少女になっていました。

 花を食べて生きる少女は、一日に一輪の花を食べます。そして動物と話し、鳥の歌を聴き、空を見て未来を予知します。ベッドの上で少女は窓を見上げ、ああ今日はなんてよい一日なんだろう、と思いました。それから先日来、リビングのテーブル上で咲き誇っていた薔薇を一輪、むしゃむしゃ食べてしまいました。薔薇の香気が胃の腑や肺に広がり身体のすみずみに生命のエナジーが行き渡ったので「生き返ったわい」と呟きました。エナジーが満ち満ちてきた少女は散歩に行くことにして、おしゃれな服に着替えることにしましたが、クローゼットの中には「奴隷の服」しか入っていませんでしたので、少女は愕然としました。少女にはその変な服が、奴隷の服に見えたのです。それというのも、クローゼットはもともと大佐のものなので、少女の服はなかったのです。少女は仕方なく奴隷の服を着ました。真っ黒の窮屈な服です。ズボンはぺらぺらの生地で出来ていて、太ももの前の部分に折り目が入っています。それから同じ色の上着があって、それは細長い三角の襟が胸のしたまで伸びています。ボタンはふたつついています。この上着の下に、普段はワイシャツというものをつけ、さらには首に布切れを巻き付けて胸の前に垂らしてぶらぶらさすのが奴隷の服のただしい着用方法です。少女はなんで私がこんなものを着なければいけないのかしら、意味不明だわ、と思いましたので脱ぎました。おしゃれが出来ない状況だったので、仕方なく普段着のまま散歩に出ることにしたのですが、その方がむしろ少女には快適でした。外に出ると小さめの蛾が「こんにちは」と挨拶をしてくれました。少女は「こんにちは」と挨拶を返しました。マンションの階段を下りて住宅街の中を歩いていると、かぎしっぽの野良猫が「ごきげんよう」と挨拶をしてくれました。少女は「ごきげんよう」と挨拶を返しました。それから塀と家の隙間に臆病なカエルがいました。カエルは両手を合わせて、まるでお祈りをしているようでした。その上、のどもぷくぷく動いていたので、まるで念仏を唱えているようです。「カエルさん、どうして祈っているの?」と少女は聞きました。「あたしらは祈るために祈っているのさ」とカエルは言いました。「何に祈っているの?」と少女は聞きました。カエルはぐーぐーと変な音を出して笑いました「あんたは何も知らないんだね。祈るものと言えば、あの天国の扉に決まっているじゃないか」カエルは舌をびーんと伸ばして天国の扉を指し示しました。少女には、カエルの指したものは、天国の扉などではなく、家の窓に見えました。「あれは家の窓よ」と少女は教えてあげましたが、カエルはぐーぐー笑うばかりでした。少女はしばらくカエルと祈っていましたが、家の窓が開くことはありませんでした。それが良いことなのか、悪いことなのか、少女には見当もつきませんでした。花の咲いていない桜並木を抜けて、大きな川の畔にたどり着きました。川の畔には蝶が踊っていました。また、無数の猿たちがひとかたまりになって騒いでいました。そして鳥たちは歌っていました。中でもハトは面白い声で歌っていました。クルクルポウクルクルポウと、とても小さい声で歌い続けているのです。その声に合わせて別のハトもクルクルポウと答えています。これはラップバトルのようなものだと思いました。ハトはかわいい格好をしていますが、クルクルポウと歌うギャングスターなのです。気に入らない奴が来ると、尻尾を扇のように広げて地面をこすり、首の毛を膨らませて化け物のような姿をして威嚇します。どんなに平和な国にも争いごとはあるんだなあと少女は思いました。鳥の歌を堪能した少女は、川べりの倒木の上に座り、空を見上げました。千変万化の雲の形は、未来を表しているのです。少女には未来が見えました。明日はひさしぶりに出勤しなければならない、と雲は予言しました。少女は面白くない気持ちになりました。川で魚が跳ねましたので気分を取り直して見に行くことにしました。光る水面をのぞき込むと、そこにはもう少女の姿はありませんでした。水面には、ししみが映っていました。

 ここまで書くのに3時間かかってしまいました。途中で掃除機をかけたりしましたが、パソコンの前に座って眺めのよい27インチの窓を見つめていました。そろそろししみの在宅期間は終わりを告げようとしていて、これからはまた通勤電車に乗らなけばならないのですが、そのことを今はあまり苦にも思っていません。ずっと家の中にいることは、ししみにとって得意なことのひとつだという不可思議な自負があったものですが、そしてたしかに家の中で自分が面白いと思うことをやり続けることは、おそらくよい時間のひとつだったものだなあとは思いますが、ししみの中の大佐はそのよい時間を疑い、またししみの中の少女は好奇心を持て余しているようにも思われ、不自由であるという感覚をししみ自身が作り出しているにせよ、やることがあるという意識が生き方をイージーにすることには変わりがなかったので、実はすこし気が楽になっているような気がします。それがよいことなのか悪いことなのか、今はまだ見当もつかないけれど。

 

なつ音楽

 そろそろ夏が来るから、夏を好きになろうかな。

 音楽を聴いているとき、この曲は夏だなあと思うのが何個かある。

 夏で、その上で夏が好きだなあと感じさせる曲。

 そういうのを自分なりに集めてみようかな。

 

 

 


 

KREVA『イッサイガッサイ』

 毎夏一度はイッサイガッサイを聴いている。

 夏の、しゃかりきになっていない側面がよいの。

 元気いっぱいにはしゃぐぞう、という盛り上がりが終わったあとの、夜の感じ。

 何かを思い出したり、考えたりしている感じ。

 こんなふうにふわっと終わっていく夏も、ええのかもしらん。

 

 

 


 

Fatboy Slim『Weapon Of Choice』

 実際にわーわー騒がなくても、頭の中で音楽が鳴っていればいいと思う。

 ダンスミュージックで、テーマも別に夏などではないのだろうけれど、浮かれているね。

 浮かれている、楽しい気分だ。っていうお祭りが頭の中にあればいいと思う。

 リズムに合わせて花が揺れたり穴からリスが出てきたりすればいいと思う。

 夏がなんかそわそわすんのは、人間が動物だからで。

 動物達は、人間よりも踊っているような気がするね。

 

 

 


 

荒井由実松任谷由実)『ルージュの伝言

 ちいさな旅立ちの歌だし、状況はすこし修羅場なのに、ぜんぜん悲しくない。

 この底抜けの明るさは、ぼかぁ夏だと思うね。

 どうなるんだろうっていう不安を、わくわくに変えて、飛び出した自分がすこしほこらしい。

 そういう夏になればいいと思います。

 電車の窓から海が見えればいいと思います。

 

 

 


 

CHRONO CROSS ~時の傷跡~』

 クロノクロスというゲームのOP曲です。

 とんでもない冒険が僕を待っている予感がします。

 運命に翻弄されたりもするのでしょう。辛い状況に陥るかもしれない。

 それでも前に進むと決意したんだ。というイメージで少し強くなります。

 僕は冒険は夏の感じがします。(冬は最後の方のステージです)

 リュックサックに貴重品だけ入れて、南の島にでも行きましょう。

 


 


 

ひぐらし

 なにがきこえますか。

 

 

 

食べる

 モンスターエナジー二本とドライソーセージを一本食べた。

 ものをほとんど食べない日がわりとあるように思う。
 何故そうなったのか、理由はふたつある。
 ひとつは、物を食べると疲れてしまうから。
 もうひとつは、父が「時々は一日くらい何も食べない日があってもいい」と教えてくれたから。
 ものすごくお腹が減っている時には、ものすごく食べるのがいいと思っている。
 けれど別に腹が減らないなあという日には、食べなくても特に問題がない。
 どれだけ食べてもいずれ腹は減るし、どれだけ食べなくてもいずれ腹は減る。

 物を食べるのが面倒だ、という感覚を僕は、人間なら誰しも持っていると、ずっと思っていた。
 子供の頃、ご飯を食べていると、すぐにお腹がいっぱいになって食べられなくなった。
 母はご飯を食べない僕を見て、それは当然のように「残さず食べなさい」と言う。
 けれど僕は半分くらい食べたらもうご飯を見るのもつらくなっているので、箸でおかずをつまんだり、米粒を一粒ずつゆっくり口に運んだりして、居心地悪くもじもじしはじめる。
 しまいには箸を置いてテレビなどを見始める、ということになって結局ご飯は片付けられてしまう。
 中学生になったあたりから、食欲が増して人並みに食べられるようになったが、同年代の男性に比べると僕が食べる速度はやはり遅い。むしろ友人知人の食べる速度は、僕から見ると常軌を逸した猛スピードだと言わざるを得なかった。
 今でも僕は友達とご飯を食べに行くと、一番最後に食べ終わる。食べ終わるともう疲れてしまう。食べている最中に箸を置いて少し休んだりもする。そういう経験を続けているうちに「おそらく普通の人間は、物を食べるのが面倒だとか、疲れるとか、思っていないのではないか」という考えが生まれた。
 僕はラーメンを食べると、メインの出汁は何を使っているかがわかるくらいには、味が好きだ。
 でも食べることに対して、時々苦痛を感じる。
 それはコンプレックスのひとつだ。
 この感覚を生まれてはじめて他者から聞かされた時、彼はもう死んでいた。
 彼は太宰治という名前で小説を書いていて、彼もとある本の中で食べるのが面倒くさいと言っていた。
 僕は自殺をしないように生きようと思う。

 父は小柄だったことをコンプレックスにしていた。身長は僕より低かった。
 身長が低いということを気に入っていない、ということを父は隠さなかった。
 でも父が立派だったのは、卑屈にならず身体を鍛えたことだと思う。
 彼は筋肉がもりもりして腹筋が割れていて、髭を生やしていて、グレーの作業着をきたブルーカラーで、ラグビー部で元自衛隊員で三国志が好きだった。
 それで、おそらく自衛隊員だった頃の経験から「時々は一日くらい何も食べない日があってもいい」と教えてくれたのではないかと思っている。
 サバイバル訓練みたいなもので、一日食べないことなどがあったのではないだろうか。
 僕は父にその言葉をもらってから、丸一日何も食べないということが、致命的でもなんでもないことを知った。
 三食きちんと食べなさいと教育を受け、また圧力を受け、食べなければとても悪いことが起きると思っていた僕の思い込みをたったのひと言で壊してくれたその言葉のおかげで、僕は「腹が減っている」というのはどういう状態なのかを、きちんと知ることが出来たと思う。

 

お題「昨日食べたもの」

4つの本棚

 我が家には本棚が三台ある。

 ひとつは小さい本棚である。小さい本棚には古い本が並んでいる。新しい本を入れる余地はない。ぎっちりである。どうして古い本が入っているのかというと、それはわからない。なんとなく古い本を入れた方が良いような、こぢんまりしたたたずまいをしているからだろうか。きっとそうだろうと思う。改めて観察してみると、四段あるうちの上二段は小林先生の小説で埋まっているので、ほぼ祭壇のようでもある。僕は小林先生の本が好きである。サイン本も何冊か持っている。それはちょっとした僕のお宝だけれども、小林先生を好きでも嫌いでもない人にとっては、本棚の上のサイケデリック牛の方が気になるかもしれない。サイケデリック牛は、陶器で作られた牛の置物で、骨格が浮き出ている。骨格の隙間にはリンゴやバナナ、太陽、ハートなどが描かれている。それはまるでメキシコのお祭りみたいだ。死者の日である。カラフルな牛の骸骨だ。この置物は気に入ってる。誕生日プレゼントに貰ったものだ。僕が生まれた日に、死を思わせる置物をプレゼントしたセンスにはいつも脱帽している。メメントモリということである。

 もうひとつは中くらいの本棚である。彼は僕がインターネット市場で購い、また自ら組み立てた本棚だから、少し愛着があるし、機能にも詳しい。機能というのはつまり薄型であること。そして200冊の文庫本が収納できるということである。中くらいの本棚には主にマンガとライトノベルが詰まっている。隙間は少しあるので、あと5冊は入るだろうと思われる。漫画は、よつばとやPEANUTS、それ町などが入っている。ライトノベルは西尾先生専用の一段があり、秋山先生と竹宮先生の棚がある。この中くらいの本棚は、一番読みやすい本を入れることに決めおり、パソコンの横に置いてある。首をぎにゅうと九十度曲げると、もうそこは本棚である。一番目につきやすい本棚なので、いつも入れ替えをしようと思うのだけれど、本棚の入れ替えは知力と体力の限界に挑むスポーツの様相を呈するので、まだ決断できていない。

 さいごは大きい本棚である。この本棚は僕の身長より背が高く、また奥行きも深いので、本棚というよりは単なる棚で、実際に本以外にも雑多なものがぎちぎちに詰まっている。たとえばカエルのぬいぐるみ、近所のレンタルショップが潰れた時にたくさん買った映画のDVD、田舎から持ってきた数枚のCDアルバム、ドライバー、ラジオペンチ、六角レンチ、ベアリングを交換する機械、LANケーブル、書類、写真、カメラなどが置かれている。その他は雑多な本である。本は何も考えずに読んだ端から入れていくし、読んでない本も入っている。漫画も文学もエンタメも新書も入っている。いわゆる無法地帯であり、本棚は人の頭の中を現している、という言葉を物理的に完璧に表現している。思考は、はじめに混沌があり、そこから秩序を見出すことをいう。大きい本棚は、まだ思考として明確な形を得ていない無意識の領域なのである。そういうことにしている。

 さらに最近、新しい本棚を買った。
 この本棚はとても薄い。奥行きは一センチもない。縦の長さは手のひらを広げたくらいで、横の長さは握りこぶしより少し大きいくらいだ。本棚の名前をKindle Paperwhiteという。数千冊の本を格納することができる。本棚としての性能はとてもすぐれている。僕はこの本棚をこれからする予定の引っ越しのために買った。田舎から上京するとき、蔵書の大半を処分しなければならなかったことが、いまだに忘れられないからだ。
 

 

 

お題「我が家の本棚」