3時間

 スマートフォンの天気予報アプリを見ると最高気温は26℃らしかった。外に出ない方が安全だろうと思われた。もし外出したら身体が溶解するかもしれない。まだアスファルトの染みにはなりたくない。たわごとを並べていたい。楽しげな言葉がころんころん出てくればいいんだけどなあと思って、まだ終わっていない今日一日の日記をさきどりして書こうと思います。言葉が思考を作り、思考が性格を作り、性格が行動を生み出し、行動が一分一秒を彫刻して、やがて人生の形に結実するのであります。楽しい言葉を身体に染み込ませることが肝要なのではないでしょうか、ししみ大佐、どうですか。それはまるで茄子の煮びたしみたいなものではありませんか? 言葉と人生というものは……花の種子は鳥に食べられるために甘い実をつけるのです……そして鳥の体内で運ばれ新しい土地に自らの分身を……芽吹かせるのであります。それならばいっそ思考のための言葉ではなく、言葉のために思考してみるのも人生に有益なのではありませんか?

 人生というものがあると仮定して、の話ではあった。と、(ししみ)大佐は思った。
 はたしてそんなに不可思議なものがこの世にあるのだろうか? それ、あると思ってるだけとちがうか? と大佐は懐疑主義的なところがあった。大佐はふくろうのように疑り深い男です。ガリガリ君ソーダ)を食べながら、椅子の上でふんぞりかえっては「あやしい……あやしい……」と呟いてばかりいます。ついさっきも疑わしいことがあったのです。『密着! アメリカ警察24時』というおもちろいティーヴィーショーを見ていた時のことです。とある疑わしい男が自動車でハイウェイを暴走したので警察が停止せよと命令をしました。疑わしい男は停止命令に従い路肩に車を停めました。警察は車から降りてくださいとお願いしたのですが、なぜか渋って出てきません。それどころか「何故降りなきゃいけないんだ」と次第に怒り出すのです。「俺は何もしていない!」警察と男は言い合いになります。恐ろしい怒鳴り合いです。突然男は運転席から飛び出してきました! カメラはブレて画面に何が映っているのかよくわかりませんが、男の手にはナイフのような光るものがちらりと映し出され「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」と警官が必死に叫びました。「止まれ! 伏せろ!」「殺してみろ!」「止まれ! 伏せろ!」「殺してみろ!」そんなやり取りが10ぺんも繰り返されたでしょうか、ついにバァンバァンと発砲音がしました。警官は男の足めがけて銃を発射したのです。おそろしいことです。アメリカの警察はこんなに簡単に銃を撃つんだなあと大佐はびっくりしました。そしてそれよりもびっくりしたのは、男が足を撃たれても別に痛がっていなかったことです。映画なら「うわぁー!」と叫んで地面をごろごろするシーンですが、撃たれた男は足から血を流したまま「殺せ! さあ、殺せよ!」とさらに煽るように叫びます。なんなんだこれは、と大佐は思いました。これは現実なのか? 男は足をひきずってゆっくりカメラに近づいてきます。そのうち応援の警察が来て、男にテーザー銃を撃ちました。テーザー銃というのは非殺傷武器というもので、スタンガンの一種です。これを食らった人は、どんなに鍛えた人でも身体が硬直して動けなくなります。テーザー銃も本当に恐ろしい武器ですが、アメリカ警察24時を見ているとポリスメンはしょっちゅうテーザー銃をぶっぱなします。警察の言うことをきかないというだけでテーザー銃を撃たれます。警察の言うことをきかない、ということが既に罪のひとつになっているからです。これもおそろしいことです。本当に何も悪いことをしていなくても、警察があやしいと思えば、車を調べられたり、身元を照会されたりしなければならないのです。何も悪いことをしていないと主張するとテーザー銃をぶっぱなされます。警察がすぐにテーザー銃やピストルをぶっぱなすのはなぜでしょうか。それは悪い人もごく普通にピストルやライフルを持っていて、機嫌が悪くなると警察に向かってぶっぱなすからです。そして悪い人は「悪いことをしましたか?」と聞かれても「はい、しました」とは絶対に答えません。なので警察は疑わしい人にまずテーザー銃をぶっぱなします。壮絶なぶっぱなしいたちごっこです。憎しみの連鎖です。大佐はもし私がアメリカに行くことがあったら警察の言うことは大人しく聞くことにしようと思いました。それで、話を戻しますけれども、男に向かってピストルをぶっぱなした警官は、スタジオに呼ばれてインタビューを受けました。司会の人が警官に「あなたはナイフ男にピストルをぶっぱなした、これはいい判断だと思います。あなたはテーザー銃を持っていなかった」と言いました。警官は無言でした。大佐はこの時、もしかしたらこの警官はテーザー銃を持っていたのではないかと思いました。本当は持っていたけれどピストルをぶっぱなしたのだとしたら、これも恐ろしいことです。大佐はガリガリ君を食べ終え、そして人間の命というものはなんだろうと考えて、ぼうっとしていました。安い命、高い命、身分によって命の価値が決まったり、行動によって決まったり、美しさ、機能によって命の価値が定められたりしているような気がするが、命というものは平等に大事だと思っていたが、現実にはそうではないみたいだな、文化や貧富によって、線が引かれてしまうものなのだな、と思い、ついに大佐は泣き出してしまいました。大佐は枕を抱き締め、ベッドの上でいつまでも泣いていました。そうして涙が枯れるころ、大佐は少女になっていました。

 花を食べて生きる少女は、一日に一輪の花を食べます。そして動物と話し、鳥の歌を聴き、空を見て未来を予知します。ベッドの上で少女は窓を見上げ、ああ今日はなんてよい一日なんだろう、と思いました。それから先日来、リビングのテーブル上で咲き誇っていた薔薇を一輪、むしゃむしゃ食べてしまいました。薔薇の香気が胃の腑や肺に広がり身体のすみずみに生命のエナジーが行き渡ったので「生き返ったわい」と呟きました。エナジーが満ち満ちてきた少女は散歩に行くことにして、おしゃれな服に着替えることにしましたが、クローゼットの中には「奴隷の服」しか入っていませんでしたので、少女は愕然としました。少女にはその変な服が、奴隷の服に見えたのです。それというのも、クローゼットはもともと大佐のものなので、少女の服はなかったのです。少女は仕方なく奴隷の服を着ました。真っ黒の窮屈な服です。ズボンはぺらぺらの生地で出来ていて、太ももの前の部分に折り目が入っています。それから同じ色の上着があって、それは細長い三角の襟が胸のしたまで伸びています。ボタンはふたつついています。この上着の下に、普段はワイシャツというものをつけ、さらには首に布切れを巻き付けて胸の前に垂らしてぶらぶらさすのが奴隷の服のただしい着用方法です。少女はなんで私がこんなものを着なければいけないのかしら、意味不明だわ、と思いましたので脱ぎました。おしゃれが出来ない状況だったので、仕方なく普段着のまま散歩に出ることにしたのですが、その方がむしろ少女には快適でした。外に出ると小さめの蛾が「こんにちは」と挨拶をしてくれました。少女は「こんにちは」と挨拶を返しました。マンションの階段を下りて住宅街の中を歩いていると、かぎしっぽの野良猫が「ごきげんよう」と挨拶をしてくれました。少女は「ごきげんよう」と挨拶を返しました。それから塀と家の隙間に臆病なカエルがいました。カエルは両手を合わせて、まるでお祈りをしているようでした。その上、のどもぷくぷく動いていたので、まるで念仏を唱えているようです。「カエルさん、どうして祈っているの?」と少女は聞きました。「あたしらは祈るために祈っているのさ」とカエルは言いました。「何に祈っているの?」と少女は聞きました。カエルはぐーぐーと変な音を出して笑いました「あんたは何も知らないんだね。祈るものと言えば、あの天国の扉に決まっているじゃないか」カエルは舌をびーんと伸ばして天国の扉を指し示しました。少女には、カエルの指したものは、天国の扉などではなく、家の窓に見えました。「あれは家の窓よ」と少女は教えてあげましたが、カエルはぐーぐー笑うばかりでした。少女はしばらくカエルと祈っていましたが、家の窓が開くことはありませんでした。それが良いことなのか、悪いことなのか、少女には見当もつきませんでした。花の咲いていない桜並木を抜けて、大きな川の畔にたどり着きました。川の畔には蝶が踊っていました。また、無数の猿たちがひとかたまりになって騒いでいました。そして鳥たちは歌っていました。中でもハトは面白い声で歌っていました。クルクルポウクルクルポウと、とても小さい声で歌い続けているのです。その声に合わせて別のハトもクルクルポウと答えています。これはラップバトルのようなものだと思いました。ハトはかわいい格好をしていますが、クルクルポウと歌うギャングスターなのです。気に入らない奴が来ると、尻尾を扇のように広げて地面をこすり、首の毛を膨らませて化け物のような姿をして威嚇します。どんなに平和な国にも争いごとはあるんだなあと少女は思いました。鳥の歌を堪能した少女は、川べりの倒木の上に座り、空を見上げました。千変万化の雲の形は、未来を表しているのです。少女には未来が見えました。明日はひさしぶりに出勤しなければならない、と雲は予言しました。少女は面白くない気持ちになりました。川で魚が跳ねましたので気分を取り直して見に行くことにしました。光る水面をのぞき込むと、そこにはもう少女の姿はありませんでした。水面には、ししみが映っていました。

 ここまで書くのに3時間かかってしまいました。途中で掃除機をかけたりしましたが、パソコンの前に座って眺めのよい27インチの窓を見つめていました。そろそろししみの在宅期間は終わりを告げようとしていて、これからはまた通勤電車に乗らなけばならないのですが、そのことを今はあまり苦にも思っていません。ずっと家の中にいることは、ししみにとって得意なことのひとつだという不可思議な自負があったものですが、そしてたしかに家の中で自分が面白いと思うことをやり続けることは、おそらくよい時間のひとつだったものだなあとは思いますが、ししみの中の大佐はそのよい時間を疑い、またししみの中の少女は好奇心を持て余しているようにも思われ、不自由であるという感覚をししみ自身が作り出しているにせよ、やることがあるという意識が生き方をイージーにすることには変わりがなかったので、実はすこし気が楽になっているような気がします。それがよいことなのか悪いことなのか、今はまだ見当もつかないけれど。