食べる
モンスターエナジー二本とドライソーセージを一本食べた。
ものをほとんど食べない日がわりとあるように思う。
何故そうなったのか、理由はふたつある。
ひとつは、物を食べると疲れてしまうから。
もうひとつは、父が「時々は一日くらい何も食べない日があってもいい」と教えてくれたから。
ものすごくお腹が減っている時には、ものすごく食べるのがいいと思っている。
けれど別に腹が減らないなあという日には、食べなくても特に問題がない。
どれだけ食べてもいずれ腹は減るし、どれだけ食べなくてもいずれ腹は減る。
物を食べるのが面倒だ、という感覚を僕は、人間なら誰しも持っていると、ずっと思っていた。
子供の頃、ご飯を食べていると、すぐにお腹がいっぱいになって食べられなくなった。
母はご飯を食べない僕を見て、それは当然のように「残さず食べなさい」と言う。
けれど僕は半分くらい食べたらもうご飯を見るのもつらくなっているので、箸でおかずをつまんだり、米粒を一粒ずつゆっくり口に運んだりして、居心地悪くもじもじしはじめる。
しまいには箸を置いてテレビなどを見始める、ということになって結局ご飯は片付けられてしまう。
中学生になったあたりから、食欲が増して人並みに食べられるようになったが、同年代の男性に比べると僕が食べる速度はやはり遅い。むしろ友人知人の食べる速度は、僕から見ると常軌を逸した猛スピードだと言わざるを得なかった。
今でも僕は友達とご飯を食べに行くと、一番最後に食べ終わる。食べ終わるともう疲れてしまう。食べている最中に箸を置いて少し休んだりもする。そういう経験を続けているうちに「おそらく普通の人間は、物を食べるのが面倒だとか、疲れるとか、思っていないのではないか」という考えが生まれた。
僕はラーメンを食べると、メインの出汁は何を使っているかがわかるくらいには、味が好きだ。
でも食べることに対して、時々苦痛を感じる。
それはコンプレックスのひとつだ。
この感覚を生まれてはじめて他者から聞かされた時、彼はもう死んでいた。
彼は太宰治という名前で小説を書いていて、彼もとある本の中で食べるのが面倒くさいと言っていた。
僕は自殺をしないように生きようと思う。
父は小柄だったことをコンプレックスにしていた。身長は僕より低かった。
身長が低いということを気に入っていない、ということを父は隠さなかった。
でも父が立派だったのは、卑屈にならず身体を鍛えたことだと思う。
彼は筋肉がもりもりして腹筋が割れていて、髭を生やしていて、グレーの作業着をきたブルーカラーで、ラグビー部で元自衛隊員で三国志が好きだった。
それで、おそらく自衛隊員だった頃の経験から「時々は一日くらい何も食べない日があってもいい」と教えてくれたのではないかと思っている。
サバイバル訓練みたいなもので、一日食べないことなどがあったのではないだろうか。
僕は父にその言葉をもらってから、丸一日何も食べないということが、致命的でもなんでもないことを知った。
三食きちんと食べなさいと教育を受け、また圧力を受け、食べなければとても悪いことが起きると思っていた僕の思い込みをたったのひと言で壊してくれたその言葉のおかげで、僕は「腹が減っている」というのはどういう状態なのかを、きちんと知ることが出来たと思う。