熊のぬいぐるみ

 ひさしぶりにモヒカン先輩の顔を見た。
 緊急事態宣言前と比べても目立つ変化はなかった。
 僕の姿にもあまり違いは見られなかったろう。
 ひさしぶりに顔を見たにも関わらず、そもそもひさしぶりという感じも薄い。
 モヒカン先輩とは事あるごとに電話で情報共有をした。
 おしゃべりもした。
 話したいことがあるというのは、きっといいことだ。
 しかし僕は本当に話したいことがうまく話せない。
 僕が本当に話したいことは、ぬいぐるみを持った男性の話だった。
 彼はピンク色のよれたTシャツを着ていた。
 髪はぼさぼさでひどく痩せていた。
 左手に細長い紙袋を持って、右手に小さな熊のぬいぐるみを持っていた。
 ぬいぐるみは古ぼけていて、わたがしぼんでいるようだった。
 僕は熊のぬいぐるみがすごく気になった。
 それは奇妙に親密な感じがした。
 それは彼が持っているべきだった。
 彼の風貌や気配と調和していた。
 僕はもちろん彼のパーソナルな部分を何も知らない。
 けれどその姿は廃墟のように枯れて、無秩序で、独特だった。
 秩序は人工物の印象を与えるけれど、無秩序は自然を思わせた。
 お花屋さんの軒先の花はきれいだけど、河原のコンクリートを割って生える草は獰猛で、生きている感じがした。
 僕は生きているものについて話してみたかった。
 それは狼の群れの遠吠えのように、熱心に不協和音を奏でることだった。
 意味のないものに意味のないままで衝撃を受けたかった。
 あれはなんだろう、と思っていたかった。
 だから僕はそろそろ、美術館に行こうと思う。