マッチポンプ

 一年前に書いた文章が読みたくなり、フォルダを漁った。

 私は一年前、こんな文章を書いていた。

 

『10年後の言い訳』

 生きて、今日も煮物を食べている。それから明日のことを考えている。誰かが鼻歌を歌っている。アスファルトの上を鉛筆の芯のように硬い音を立てて歩いてる。こつん、こつんと打っている。響いている。机の上に置いてあるビールはいつになく古めかしい味がする。トルメキアの味がする。ウマイヤ朝の、草木の生えぬ丘の上で白い布を纏った半裸の女が飲んでいる発酵した酒の。思っていたよりも体の調子は良くない。そして思っていたよりもその事がどうでもいい。そんな夜にすることと言えば映画を見ることくらいだった。ミカヅキモとミカヅキモモコの関係性に思いを馳せない。明日はどこかの水族館へゆこう。ひとりで。ひとりきりで魚に囲まれて冷たい海水を飲んでしまった。舌に歯に、海水が引き締めてゆく肉の体へ、喉を落ちていくよ、喉をおちていくよこの世界で血の次に生命の味がする水が、胃の腑に、そして体液に、やがて排出されそれは一部になる。生きて、10年後の言い訳をしている。悲しいことを言いたくない言い訳をしている。笑っているためには何ができるか考えたことがあまりなくてそんな自分が天国の片隅に腰を下ろしている。そして誰かが歩いている外の、ずっと向こうに光っている街の灯りの下で、誰かが今日も朽ち果てているという事実を承知することができるの。誰かがもう夢を見ている。今日もコンクリートの上をこつんこつんと打っている、そんな夢の音が聞こえた時、コンゴに引っ越したばかりのキム・カッファンネリチャギの練習をしている。そして煮物を食べている。夢を食べている。電子レンジの中に隠しておいた運命の卵は、その塊はいっそ大きな鶏になって地球をジュラ紀に孵してしまう。僕たちが私たちが夢を見る時、宇宙ロケットは完成する。明日は誰かの誕生日で明日は誰かのお葬式で、はじめてできた友達は、その時は他人だったのだと気がつく。友達のことを友達と呼ぶことを知って本当の友達はもう二度と現れないけれどもポジションは脳に心に確立する。夢の話を聞くのは世界で一番退屈だと言っていたたくさんの人達の夢の塊がとても悲しい。欲しいものをねだっている鼻声の犬みたいで、撫でてあげたい。迷子になった大人の次に孵ったニワトリの可能性は減じている。ポッシブル。ポジティブ。思ったより状況は改善されもせず不完全でいつまでも固着しない。そういうことを安心している自分もいるし、柳に風、斬鉄剣はこんにゃくを斬れない。愛は世界を救うかもしれない。悪は世界を救うかもしれない。アナロジーの罠はつまり、僕と君が人間だということから始まっている。種族とか心根とかも含まれているけれど目が2つあって鼻が1つで口が1つで、歯があって、くしゃみをするって、そういうところが似ているね。似た者同士だねって、人間同士で言い合っている。それを肯定も否定もできないししないし、アナロジーの罠なんだし。明日天気になるだろうか。曇っても雨でも晴れでも槍でもコンスタンティノープルでも、行き先はいつだって決まっている。決めてある。意志を意思するみたいな。行き先が無ければゴールもないみたいな。そんな10年後の言い訳をしている。
 水族館はその日も水族館で明日も水族館の予定だった。ママンは死んでいなかったし、太陽は別に眩しくもなかった。誰かの叫び声と共に鯛やヒラメが舞い踊っていた。彼らはいつも舞い踊っていた。悲しくも嬉しくもなかった。ただ舞い踊っていた。そしてそのことについて人類は様々な想像をした。誰かのためにとか、愛とか平和とか、核兵器とか、難しい病気について考えていた。でも最後に笑っていた。みたいな話を考えていた。消しゴムは消しカスになった。でも人類はどこかへ行けると思っていた。最初の問題は人間の成長過程にあって、赤ん坊が赤ん坊であることだった。それは問題だった。もし赤ん坊が鹿のように一日で立つことができたならば、どこかへ行きたいと思ったりせず、それを歌ったりもしないで草を食べてにこにこしていけるのかもしれなかった。そういうことを人類はというか私が考えていた。そして私は人類だった。人類はビタミン剤を食べていたし、煮物も食べていた。DHAを飲みすぎて尻から魚油が出ていた。恋は終わり、愛も終わっていた。人生がポケモンフラッシュだ。
 人生がポケモンフラッシュだ。どうにも倒れる人間が多いと思っていた。天国と地獄は、みんなが忘れてしまった概念のひとつで、大人たちはゴルフとパチンコの話ばかりしていて、天国は勝つことで、仕事でミスをしたら地獄だった。それでいいのかと、それでいいのかと嘆いた神様は、といっても人類の心の中の神様は、偶像崇拝は禁止されていてもミニスカートを生み出してしまった。そしてアイドルは握手会をした。握手会はモスクに向かってこうべを垂れることで、かつ皇居に向かって敬礼することで、現在の信仰は、日本はどうなってしまうのって日本の歴史も知らない私が少しだけ考えていた。アイドルは可愛い。犬は可愛い。アイスは可愛い。生足は生暖かい。素足は冷たい。爪は伸びる。鯛やヒラメのボスは乙姫でディーバで船人を惑わして岩礁に突っ込ませる精霊。ネットゲーム依存症、アイドル依存症、アルコール依存症、生命の依存症、そして全然元気な人達が湘南でブラックライトをつけたミニバンから流れるリズムの早い不思議な音楽を聞いて舞い踊っていた。オスが踊るのは動物として正しかった。カマキリのオスはそうして食べられてしまった。色々なオスが食べられて骨になってしまって、だからオスは少年誌の中で永遠の命を望んだ。光り輝く剣で全世界的な悪を斬り伏せて存在は濃く高く厚くなり、物語は終わるべき時に終わりを告げる。コロンブスが最期、貧困の中で死んだと聞いた時、私はどんな人間をも責めることはできないと思った。正義は悲しくないし、悪も悲しくない、でも正義を認められなかった正義は、とても悲しい。
 その水族館は真っ暗で水槽の奥の世界だけが青く深く重かった。ヒトデがデデデ……と砂の上を歩いている。イソギンチャクの触手は柔らかく、とげがあって神経毒が魚を狙っている。いつかどこかの草原にベッドを置いて眠っている時、私はイソギンチャクのようなものなのかもしれない。お母さんはかつていて、お母さんは今、お母さんというよりはお母さんのひとつ下の概念のようになってしまっていて、それでも笑っていてほしかった。香水の匂いをかぐとおばあちゃんを思い出す。香水の匂いをかぐと洗面台を思い出す。使われなくなったホテルのくたびれたトイレの洗面台にはホコリの匂いが漂っていて、どれだけ目を開けても夢の中にいるみたいだった。私達はポケットに入れたマジックやチョークであちこちにマントラを書きはじめ、チャネリングはいつまでも続き、見たことのないものや、既存のものでないものを呼び寄せる儀式はいつだって不気味で、誰もいない場所に惹きつけられる人間の寂しい感性が、人恋しい感性が逆説的に誰よりも熱かった。夢の中でサンチャゴは浴衣の上にドテラを羽織っていた。サンチャゴは老人と海の中でどんな役割を演じたのか説明できなかった。私は何も覚えていなかったし、覚えていることを書くことがたぶん苦手だった。10年後の言い訳を明日も昨日も書いていた。あなたが10円ガムを買った時私はときめいた。星の下に生まれて星の上で生まれていた。何を言っても何かを言い返してしまうの。思っているよりも思っていない。煮物はこの上なくおいしい。おでんは美味しい。どうして海の中の魚は自然と煮物になってしまわないのだろうか。どうして魚はふやけないのだろうか。私にはわからないことが5億個あった。そしてその中のたったひとつの答えを出すのに5億時間かかった。わたしが知っているのは、石の下にダンゴムシが隠れているということだけだった。そのことを誰かに話したかった。石の下にダンゴムシが隠れているという話題で共感されたい。そういう話をしたいのにそういう話をしてくれる友人や知人はいなかった。だからチャネリングするしかなかったのに、10年前の私はチャネリングしてくれなかった。私のカルマは必然的に低くなっていった。何もしないということは死だった。死んでいるということは安寧で安心だ。高くも低くもなく、ジュブナイルでもビルドゥングスでもなく、プログレッシブでもアンティークでもなく、犬神家のあの、海の中に突き刺さって息絶えた人の姿を巨大なポスターにして壁に貼って、隣の部屋に住んでいる韓国人のキム・カッファンと一緒に眺めながらえびせん食べたい。そういうことがしたいと言いながらおでんをつついていたい。世界征服の話と同時にドストエフスキーの話をしたい。話をしたいという話をしたくて、赤い実が弾けたい。願望はどこまでも大きくありたい。夢は大きく生活は小さく、想像は限りなく、空想を叱る大人は水槽の中で舞い踊っていた。鯛やヒラメは姿を消した。薄暗い水族館の狭い廊下の両サイドに広がる水槽の中に大人たちが舞い踊っている。ピアニッシモという言葉が不意に浮かんで、それは見たこともない女の友達が吸っていることになっていたなとふと思った。会ったことがない時ひとは観測されないシュレディンガーの猫で、いるんだかいないんだか分からなくて、だから不安なのだった。笑っていてもらわないと、などと承認欲求の鬼になるまでもなく、5億人の恐れているのは今や退屈なのではないかと思うと、卑しさや悪意も肌に優しいガーゼみたいなものなのではないかと思うこともあるの。間違ったことを言ってしまって、悲しそうな疲れた顔をされた時、暗い道の街灯の下に怖いおばけがいる感じがする。誰かが幻想的な吐瀉物の続きを追っている。狼の格好をした赤ずきんがカゴの中のワインをがぶ飲みして大人の女になる。赤ずきん赤ずきんを脱ぎ捨ててディオールのマントを羽織る。そしてディオールずきんちゃんとは呼ばれない。彼女の名は、都営地下鉄のトンネルの奥の扉の表札にかかっている。ビールを飲んで迷い込んだ家なき子がポケットのマッチを灯して幻覚に苛まれ、スパイダーマンが自分に合ったブーツをABCマートで探している。天国は、そして地獄はどこにも続いていなくて、それが人類には嬉しくて、どこかへ行けると思っているからこそ最初の一歩を踏み出せた。明るい言葉の影にはいつだって暗い言葉があって陰陽で、誰かを好きになることは誰かを嫌いになることだったのかもしれない。からあげクンを食べながら公園の地面に突き刺さっているバネ仕掛けの象にのって天国の歌を歌っていたら警官が二人きて私に話しかけてくる。そして仕事が終わるのを全人類はとても楽しみにしていた。靴をみつけたスパイダーマンはポケットから財布をだして29800円支払う。マッチの中に見た幻想には七面鳥の丸焼きがある。トンネルの奥の廊下の先の扉の中の女はディオールを捨てて、タンスの一番上の引き出しの奥にたたんであった赤ずきんを取り出して、カゴに林檎のパンとワインを入れて、こつんこつんとアスファルトを踏みしめて歩るき出した。彼女は、おばあちゃんの墓参りに行くらしい。

 

 読み終わってから、あまりの意味の分からなさにぞっとした。

 当時どういう気持ちでこれを書いていたのか全く思い出せない。

 一年経ったから、今の自分はもう少しまともな文章を書けるようになっているはずだと希望を込めて最近書いたものを読み直した。

 

『日記』

 必ず目覚めることが人生の課題になっている。起きる、風呂に入る、換気扇の下に立つ、スーツに着替える、髪型を整える。前髪を、気にする。鏡に映る前髪は、これは演じているようでもある。カメラ、アクション、前髪は眼球の前で演じているようでもある。監督は覚めた目で見ている。
 通勤の電車に乗る、スーツ姿の人々が椅子に座っている。時々大きなバックパックを股の間に置いた旅人が混ざっている。旅人の肌は浅黒く焼け、Tシャツはくたびれている。獣の柄の皮を纏った肉食獣が混ざっている。麝香のにおいをさせた肉食獣はより強い革で武装し、周囲を睥睨している。読書中のおばあちゃんが混ざっている。文庫本は陽に焼けていて手触りが良さそうに見える。学生が混ざっている。スマートフォンがぴかぴか光る。妖精が混ざっている。妖精はくすくす笑っており、軌道を擦る車輪の震動と妖精の笑い声だけが車内にひびいている。みんなどこかへ行こうとしている。AからBへ。BからCへ。そうしてCからBへ。BからAへ。移動距離・時間・費用のグラフが少しだけ伸びる。Zまでの距離・時間は人生の移動結果(トータル)が伸びた分だけ少し減る。移動結果を取り込んだ解釈機が概念Xと概念Yを出力する。概念Xを採用すると微笑む。概念Yを採用するとうなだれる。データの量が多い方を真実Ωとして採用するアルゴリズムを用いて、概念X<概念Yの時、真実Ωを真実Σに変換する要素は次のうちどれか。僕は世を儚みウイスキーの瓶を抱えながらシャワーを浴びた。僕はトゲトゲのついた肩パットを装備して髪型をモヒカンにし、バイクに乗ってヒャッハーと叫んだ。僕は白い毛むくじゃらの犬と目が合い、くもりなき眼で見つめられたため微笑んだ。
 会社に着くと仕事をする。他愛ない話をする。「台風がくるみたいだよ」「また台風がくるんですね」「すごく美味しいラーメンなんだよ」「ラーメンは美味しいですね」「奥さんが怒っちゃったよ」「奥さんを怒らせないようにしないとですね」「疲れたよ」「疲れましたね」「もう誰も信用してないよ」「仕方ないですね」「夜の次には朝がくる」「あなたは心の太宰!」「大人とは裏切られた青年の姿です」「そうかもしれないですね」「生まれてすみません」「仕方ないですね」「諸君、私は戦争が好きだ、諸君、私は戦争が好きだ」「あなたは心の少佐!」「スクラップアンドスクラップ」「あなたは心の」「あなたは」「ぼくは」ブレイクスルーしますか? →はい いいえ 「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」インナーチャイルドをだっこして誰もがパソコンの前で血の気の無い顔をしている時、真実Ωを真実Σに変換したいと思うことは難しい。お疲れ様でした、と述べて仕事フロアを出ると、都会にはにわか雨が降っていて、灰色の空を見ると故郷を思い出した。廃墟のような町だった。人が誰もいない町だった。氷の浮いた川に白鳥がいて、彼らは丸めたティッシュみたいな格好をして休んでいた。川に近づくと、えさをくれる人が現れたと思って白鳥がへらへらと鳴きながら水面を滑ってやってくる。薄い鉄の板をこすり合わせたような、壊れたラッパみたいな、へらへらした鳴き声だ。りんごをあげてきなさいと母に言われて小さく切ったものを持って川岸に行き白鳥にりんごを投げると彼らはばくばく食べた。パンも食べるし、手にも噛み付く。くちばしにはヤスリのような細かい凸凹があって、噛まれるとざらざらして痛い。りんごが無くなったのが分かると白鳥は川の真ん中のあたりに行ってしまう。僕は家に帰ることにして電車に乗る。駅からマンションまで歩いていると、中華料理屋と駐車場の間の狭いスペースに犬小屋があって、そこに白い毛むくじゃらの犬がいる。日差しが強い日には犬小屋の影に寝ている。犬の前を横切ると、犬は顔を上げて僕を見る。微笑む。赤ん坊と目があったときと同じように、そうしなければならないという衝動のままに微笑む。光のもとに影がある。どちらか一方だけを見つめ続けるのはフェアじゃないんじゃないかと僕は考えた。川岸を歩いていると日が暮れて行った。オレンジと紫色の光が空を埋め尽くした。コウモリが飛んでいるのを東京に来てはじめて目にした。馬はテニスコートを見ていた。古道具屋が修理した東欧のネクタイピンを購入した。パンの袋を開いた。蝉が仰向けになっていた。耳栓をつけて眠った。満員電車の中、ピアノの曲が流れていた。生き物がAからBへ移動する。BからCへ。最終到達点Zへ移動しようとしている。火を運んでいる。熱が伝導する。Aに戻って休む。風呂に入ってご飯を食べてベッドに入って眠る。それから人生の課題に取り組む。

 

 全然変わっていなかった。

 こんなに絶望したのは久しぶりなので僕は嬉しくなった。

 でもまともな文章を書こうと思った。

 

 

かたちとたましい

 池袋の街を異質な衣装を纏った人々が歩き回っている。街角に立って話をしている。様々なキャラクターがおり世界観は混ざり合いそれぞれの物語解釈が表出する。いつもの町は姿を変えて別世界になる。ハロウィンの季節になってほんのわずかな期間だけ現実にはありえない存在の姿をしても誰も笑わなくなる。現実に存在を許されている僕は現実に存在を許されている僕のコスプレをして池袋に向かった。

 株式会社アップランドに所属している12人のバーチャルユーチューバー集団アイドル部。その中のひとりであるカルロピノさんが、池袋コスプレフェス内の企画のひとつ、ハレザ池袋にあるドワンゴイベントスペース「ハレスタ」のプレオープンに先駆けた生放送を現地で行うと知った時、今行かなければアイドル部のイベントには一生行けないんだろうなあと思い、ニコ生で中継されている池ハロの様子をスマートフォンで見ながらリビングを何分か歩き回った。それから覚悟を決めて流行遅れのサコッシュにお財布を入れた。サコッシュを肩にかけるといつもピクニックに行くような気分になった。サコッシュの中で家の鍵がちゃらちゃら鳴っている時、いつも天気は晴れていた。

 いつでもお祭りのような人混みのサンシャイン60通りは、いつにも増して喧騒が渦巻いている。アニメイトの前に差し掛かるとコスプレをしている人が随分多くなり、ほどなくして特設会場が見えてくる。首から一眼レフを下げたカメラマン達と、脳の情報処理能力を著しく低下させる見慣れぬ異世界の衣装の人たちでごった返している。巨大なラウドスピーカーからは太い低音のリズムが途切れること無く溢れ出して、現代の祭り囃子はDJがひとりで演奏するものらしい。20年後には盆踊りに取って代わったコスプレ祭りのアニメリミックスを懐かしく聴きながら誰も彼もがアバターにエモートを出力しているのかもしれない。インターネットではもう随分前からそういう事が行われている。

 ハレスタはガラス張りの狭い空間だった。奥の壁面は大きな液晶画面になっていて、カルロピノさんが立っていた。平面の姿をしていた。どこからともなく彼女の声が聞こえてきた。ヴァーチャルな彼女が笑うとヴァーチャルではない声もまた笑った。ヴァーチャルはヴァーチャルじゃないんだなと僕は思った。カルロピノさんは14歳の少女であり、人型をしている。そしてカルロピノさんはカルロピノさんのコスプレをしている。二次元の体を見ても人間には思われないけれど、三次元の声と、声にリンクした体の動きや表情のおかげで、やはり彼女が人間に見えるということが、僕にはとても複雑なことに思われた。

 カルロピノさんを見るために、たくさんの男性がハレスタの前に集って、拍手をし、声を上げ、イラストを用意し、スマートフォンで写真を撮り、笑い、応援をする。本物の肉体が無くても、人が人を好きになるのなんて当たり前だった。絵すらも必要でなく、声だけでももちろんよくて、でも本当は音声すらも必要なくて、文字だけだって十分だし、もっともっと考えたら、思い出だけだっていいんだな、もういなくたって、人を好きになるなんて。

 

理想の一日

 この間のこと、夜の渋谷のハチ公前でストリートミュージシャンを見学している3重の人垣に紛れて有象無象になりアイデンティティーを喪失させてくれるところは東京のやさしさです。
 路傍の人になって名前のない5秒で忘れられる人になって軽やかに弦をストロークする右手のリズムでコードが進行していくのを聴いている。空き缶が蹴飛ばされて突然甲高い音を立てても街頭の巨大モニターから流れる新しいミュージックのリズムによって音はかき消される。あらゆる音が音を相殺して絵を描き続けたあとのパレットみたいに混ざり合い補い合い潰しあい引き立てあいとにかく騒がしいその場所で僕が待っていた先輩からメッセージが届く。今どこにいますか? 僕は渋谷のハチ公前に着いたところです。僕もついたところです。僕はミュージシャンの前にいます。僕もそうです! では近くに? ええ、僕は近くにいるはずです。どこだろう。あ、もしかして。あ、いましたか。あうしろ。あ、あ、あ、ああ、ああ。ということになった。
 先輩と会うのは一年ぶりで、彼は先輩だけれどもまったく同年代の同い年の人なんだけれども、やはりはじめに会った時に彼が先輩だったことから、僕にとって彼はいつまでも先輩なんだと思う。先輩はひげをはやしていて雰囲気が少し変わった。けれどきっと僕だって何かしらの雰囲気は変わったのではないかと思う。自分では自分の雰囲気なんてものはわからないと思う。二人で激安の居酒屋に入って、信じられないくらい巨大な唐揚げを食べている時、勉強熱心な先輩は言った。
「僕はある日、理想の一日をやってみようと思い、実行した。その一日を"生活"にするために僕は頑張っているんだって、指針になるような一日だ」
 浅学非才な僕はその言葉に衝撃を受けた。
 そんなことは考えたこともなかったからだ。

 理想の一日だなあと思うような休日は何度かあったと思う。それは気分によるもので偶然に生まれた休日でいつものように映画を見に行ってステーキを食べて本屋に寄って散歩をしながら帰ってきて家でお風呂に入る。という一連の流れの中にフォークソングのようなありふれたなんでもない幸福を発見しこれって理想の休日なんじゃないかと思ったことはあった。けれどそれは同じ流れをもう一度繰り返しても理想だとは思えない種類の再現性のない幸福であった。僕が感じた理想と先輩の理想の相違点は、先輩は理想を作り上げるものだと考えており能動的だった。僕は理想というのは自然発生するものだと考えており受動的だった、という点ではないかと考えた。つまり可愛いが作れるように理想も作れるのだ、という可能性を先輩は示唆した。その考えはわくわくを呼び起こす。つまりよい考えだと思った。
 先輩の理想の一日は、詳細は失念したが朝起きて音楽スタジオで練習して公園のベンチで顧客にカウンセリングを行い夜はやる気に満ち溢れたバンドマンと音楽について語り明かすというものだったと思う。顧客にカウンセリングを施すの辺りは、実際にはお客さんがいないのでひとりごとをぶつぶつ言っていました。と彼は語っておりその点は思わず笑ってしまったが愛らしさが滲む。夜にバンドマンと語り合うという部分も、やる気のある人があんまりいないし話を聴いてくれるバンドマンがあんまりいません。と言ってしょんぼりしている姿はいっそ抱擁に値した。ということはさて置いても、彼の試みはおそらく不完全だったけれどもとても正しいとやっぱり僕は思う。何でもやってみるべきなのだ。

 能動的理想の一日を過ごすためにはまず理想の一日を考えなければならない。理想を計画せんければならない。だから僕は今ここで理想の一日を作り上げようと思う。
 まずバーのソファーで目覚める。灯りの落とされたバーに人影は無い。奥の壁にひとつだけある窓からは白い光が差し込んでいる。今日は晴れているのだろう。僕は体にかけてあったジャケットを羽織り直してバーカウンターの奥の冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してワイングラスに注ぎ、カウンターの椅子に座って飲む。それからレコードでハンス・ジマー作曲のRain Manのテーマを聴きながらどうして僕はバーで寝ていたんだろうと考え、ふとジャケットのポケットに何か入ってることに気が付き取り出してみる。トランプくらいの大きさのカードキーのようだ。カードの真ん中には蛙の絵が書いてある。僕がそれを眺めているとレジの横に設置してある電話機がけたたましくベルを鳴らす。戸惑いながら電話に出ると相手は息を飲んでこう言う。
「ししみさん!? なぜまだそこにいるんですか!? はやく逃げてください!」
 玄関ドアの向こうから複数の足音が近づいてくるのが分かる。
 それからドアノブを乱暴にひねる音。幸い鍵がかかっていたのでドアはすぐには開かない。しかしドアに何かを叩きつける酷い音が響いてきて安心できないことを僕は知る。この理想の話はあと10万字続きます。

 

資格試験

 今年ももうすぐ終わりそうである。
 365回分ガチャを回して、キラキラのスーパーレアな一日もあれば、合成素材用の地味な一日もあって、それは当たり前のことだったけれど、好むと好まざるとに関わらず、ぱっと目を覚ました瞬間に、一日がぽんと飛び出して、毎回必ず少しずつ違った時間が、他者に譲渡することができないという意味でも、文字通り、ゆずることのできない、一意の、わたくしだけのものだったから、わたくしはわたくしであることを手放すことができないということが、くるしかったり、うれしかったりで、それは当たり前のことだったけれど、生きててよかったなあって何も起きない日常の中で誰とも相対化せずに腹ん中に突然生まれたやわらかな気持ちを眺めて無表情のまんま喜んでいたい。

 一年のまとめは、きちんと年末にやることにして、もわもわとうすら曇った本日は、試験をやることにずっと前から決めていた。あんまり大した試験ではなく、僕がかよっている会社の従業員は、みんな持っている資格があって、その資格試験を、本当に今更ながら受けてみようと思い立ったわけだ。結果はまだ出ていないけれど、結論は出ていて、僕は落ちた。

 試験という言葉を聞くと、背筋がぞわぞわするわいという方は多かろうと思うけれど、胃の腑がにきにきしてつべたい汗が流れてきよるわいという方は多かろうと思うけれど、試験から何年も離れていると、それはそれで懐かしさが生じ、ちょっと試験受けようかなと思うことだってあるんである。

 中学生の頃などは、試験の前日になると、夜中のうちに学校に隕石落ちて爆発してればいいのになとか、車にひかれて致命傷にならない程度に怪我して入院できればいいのになとか、そんなことばかり考えて、あわれ味のよくしみた味のある生物だったのであるが、試験がどうして嫌だったのか考えてみると、嫌なのに強制的にやらされるからであり、なぜ嫌なのかと考えてみると、友達より点数が悪いと馬鹿にされ、先生に叱られ、親になじられ、自己嫌悪に陥り、自己不信をこしらえ、やけくそになり、風紀が乱れ、髪を逆立て、享楽に身を投じ、田畑が荒れ、無気力が蔓延し、国民総生産は低下し、食べるために犯罪を犯す民が増え、モヒカンから種もみを守るために廃墟の片隅で身を固くしていなければならない世紀末スラム国家ジパングが形成されるからである。

 本来的には、試験は自分の学力を測るためにあり、自分との戦いのはずなんだけれども、自分以外の要素は現実的に僕を包囲し責め立てることがあるので嫌いだったのだ。つまり僕を包囲し責め立てる障害を取り除くと、純粋に自分との戦いがはじまり、試験に取り組むことは割と普通に面白いものになる。分からないことが分かるようになるとか、失敗ばかりだった箇所がいつの間にか成功するようになってくるところとか、単純にうれしい。

 試験勉強をやればやるほど出来るようになるのって、幸せな事実だ。世の中にはいくらやっても成功しないことだってあるし、どれだけ頑張っても認められないことだってあるから、試験に合格するという明確なゴールがあらかじめ見えていて、それに向けて努力するだけで確実に進歩しているのが分かる単純な構造の中にいることは、複雑で面倒な社会に暮らしていると、とてもわかりやすくて尊いことに思われる。

 ところで僕は今回の試験に落ちたのだが、試験に落ちても誰も僕を馬鹿にせず、誰も僕を叱らず、僕自身やけくそにもならないということが、なんだか爽快だった。まったく自由なものになった試験というものを、以前よりずっと好きになった。

 今度は違う試験を受けようと考えている。合格するかもしれないし、不合格かもしれない。資格は僕の仕事には役に立たないから、どちらでもいい。歩いたら歩いた分だけ違う景色が見られるという、ただそれだけのことを確かめたいし、その実感はおそらく、資格よりもずっと僕を助けてくれる。

 

日記

 必ず目覚めることが人生の課題になっている。起きる、風呂に入る、換気扇の下に立つ、スーツに着替える、髪型を整える。前髪を、気にする。鏡に映る前髪は、これは演じているようでもある。カメラ、アクション、前髪は眼球の前で演じているようでもある。監督は覚めた目で見ている。
 通勤の電車に乗る、スーツ姿の人々が椅子に座っている。時々大きなバックパックを股の間に置いた旅人が混ざっている。旅人の肌は浅黒く焼け、Tシャツはくたびれている。獣の柄の皮を纏った肉食獣が混ざっている。麝香のにおいをさせた肉食獣はより強い革で武装し、周囲を睥睨している。読書中のおばあちゃんが混ざっている。文庫本は陽に焼けていて手触りが良さそうに見える。学生が混ざっている。スマートフォンがぴかぴか光る。妖精が混ざっている。妖精はくすくす笑っており、軌道を擦る車輪の震動と妖精の笑い声だけが車内にひびいている。みんなどこかへ行こうとしている。AからBへ。BからCへ。そうしてCからBへ。BからAへ。移動距離・時間・費用のグラフが少しだけ伸びる。Zまでの距離・時間は人生の移動結果(トータル)が伸びた分だけ少し減る。移動結果を取り込んだ解釈機が概念Xと概念Yを出力する。概念Xを採用すると微笑む。概念Yを採用するとうなだれる。データの量が多い方を真実Ωとして採用するアルゴリズムを用いて、概念X<概念Yの時、真実Ωを真実Σに変換する要素は次のうちどれか。僕は世を儚みウイスキーの瓶を抱えながらシャワーを浴びた。僕はトゲトゲのついた肩パットを装備して髪型をモヒカンにし、バイクに乗ってヒャッハーと叫んだ。僕は白い毛むくじゃらの犬と目が合い、くもりなき眼で見つめられたため微笑んだ。
 会社に着くと仕事をする。他愛ない話をする。「台風がくるみたいだよ」「また台風がくるんですね」「すごく美味しいラーメンなんだよ」「ラーメンは美味しいですね」「奥さんが怒っちゃったよ」「奥さんを怒らせないようにしないとですね」「疲れたよ」「疲れましたね」「もう誰も信用してないよ」「仕方ないですね」「夜の次には朝がくる」「あなたは心の太宰!」「大人とは裏切られた青年の姿である」「そうかもしれないですね」「生まれてすみません」「仕方ないですね」「諸君、私は戦争が好きだ、諸君、私は戦争が好きだ」「あなたは心の少佐!」「スクラップアンドスクラップ」「あなたは心の」「あなたは」「ぼくは」ブレイクスルーしますか? →はい いいえ 「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」インナーチャイルドをだっこして誰もがパソコンの前で血の気の無い顔をしている時、真実Ωを真実Σに変換したいと思うことは難しい。お疲れ様でした、と述べて仕事フロアを出ると、都会にはネオンを含んだにわか雨が降っていて、灰色の空を見ると故郷を思い出した。廃墟のような町だった。人が誰もいない町だった。氷の浮いた川に白鳥がいて、彼らは丸めたティッシュみたいな格好をして休んでいた。川に近づくと、えさをくれる人が現れたと思って白鳥がへらへらと鳴きながら水面を滑ってやってくる。薄い鉄の板をこすり合わせたような、壊れたラッパみたいな、へらへらした鳴き声だ。りんごをあげてきなさいと母に言われて小さく切ったものを持って川岸に行き白鳥にりんごを投げると彼らはばくばく食べた。パンも食べるし、手にも噛み付く。くちばしにはヤスリのような細かい凸凹があって、噛まれるとざらざらして痛い。りんごが無くなったのが分かると白鳥は川の真ん中のあたりに行ってしまう。家に帰ることにして電車に乗る。駅からマンションまで歩いていると、中華料理屋と駐車場の間の狭いスペースに犬小屋があって、そこに白い毛むくじゃらの犬がいる。日差しが強い日には犬小屋の影に寝ている。犬の前を横切ると、顔を上げてこちらを見る。微笑む。赤ん坊と目があったときと同じように、そうしなければならないという衝動のままに微笑む。光のもとに影がある。どちらか一方だけを見つめ続けるのはフェアじゃないんじゃないかと僕は考えた。川岸を歩いていると日が暮れて行った。オレンジと紫色の光が空を埋め尽くした。コウモリが飛んでいるのを東京に来てはじめて目にした。馬はテニスコートを見ていた。古道具屋が修理した東欧のネクタイピンを購入した。パンの袋を開いた。蝉が仰向けになっていた。耳栓をつけて眠った。満員電車の中、ピアノの曲が流れていた。生き物がAからBへ移動する。BからCへ。最終到達点Zへ移動しようとしている。火を運んでいる。熱が伝導する。Aに戻って休む。風呂に入ってご飯を食べてベッドに入って眠る。それから人生の課題に取り組む。