床屋

 2,3年ぶりに床屋に行って冷や汗をかいた。

 年を経るごとに髪型というもんがどうでもよくなり、生えていればいいんだろうなと単純に考えることが増えてきた折、同僚が坊主になって現れ「坊主は楽でいいよ」と教えてくれたため、インターネットでバリカンを注文し風呂場に新聞紙を敷いてバリカンを駆動させた時、手に伝わる小動物のような震動がひどく恐ろしかったことを今になってふと思い出す。

 左手に鏡を持って浴槽の縁に鏡を置いて合わせ、不自由な態勢のまま超振動を続けているバリカンの刃先を前髪に突き刺した時のわずかな抵抗と違和感と大変な過ちを犯してしまったような不安とが、たしかに丸坊主初心者の気持ちだった。2,3年後には鏡すら使わず手触りと音の強弱だけで綺麗に髪を刈り取ることができるようになるんだけどそんなことは初心者にはわからないからバリカンと同様に自身も震えて運を天に任すつもりで腹を決めて頭の形にやみくもに刃を滑らす。全てが終わって鏡の前に立った時、いままでとは全然違う自分が立っていて、それは笑ってしまうような光景に違いあるまい。嬉しいような悲しいような情けないような心強いような、坊主っていう髪型のエモーショナルな側面を存分に味わってしまって、生まれ変わっているんだよな。それは本当に新しい自分だったし、何かを変えてみることって、髪型でも服でも職業でも家でも、きっと同じような現象が起きている。

 非坊主が坊主にすると言われる言葉は大抵同じで、以下に示す。
「何か悪いことしたの?」
「野球部みたい」
「やくざみたい」
「こわい」
 ある程度親しい人に何を言われても問題は無いけれど、他者からどのように見えているのかはやはり気になるし、気になったところで髪を取り戻すことはできないからあんまり評価を気にしても仕方ないことなんだけど、好むと好まざるとにかかわらず上記の言葉は与えられる。坊主という髪型は、そのシンプルな造形に反してたくさんの意味を持ちすぎている。大人が実践するにはあまり一般的ではない、という印象が人に言葉を与えるのだろう。あまり一般的ではない、とされているからホワイトカラーな職場では歓迎されないとされている。歓迎されないとされている職場で2,3年坊主をやってきた僕が考えるには、人は慣れる。うわっ、あの人坊主になってるという女性社員の遠巻きな視線に僕が慣れるし、彼女たちですら坊主の僕に慣れて見向きもしなくなる。人は慣れる。

 山頭火スタイルで生きてきたけれど、そろそろまともになろうかなと冗談交じりに考えて髪を伸ばしはじめたのが一ヶ月前で、同僚からも「だいぶ髪伸びたね」と言われるようになってから耳にかかる髪が気になって仕方なくなってくる。この間までまるぼうずだったのにビートルズみたいな髪型になってきている。床屋に行こうかなと考えた。
 月曜日が休みの日は映画館に行くことにしていて、そのついでに床屋に入った。カットが1800円の、美容室みたいな雰囲気の普通の床屋だった。受付の用紙に自分の名前を書いて椅子に座って順番を待つ、ということがじれったくてもじもじしてしまう。そもそも子供の頃から床屋が苦手だったけれど、坊主期間中はDIYしていたから床屋の雰囲気をすっかり失念していた。そういえば僕は床屋が苦手だったな、と改めて椅子の上で暗い気持ちになりもする。何が苦手かって鏡に自分の顔が映っているのがすごく嫌だ。僕は自分の顔を鏡で見るたびに妙な顔だなあと思ってしまう。
 空席に座って己と対面していると美容師さんが来て例の言葉を放つ。
「今日はどういう感じにしますか」
 この種類の質問にはあらかじめ解答を用意しておかなければならず、そのことも苦痛を増長させる一因であり、どのようにオーダーすれば未来予想図が伝わるのか、言葉で説明するのは至難の技なので、できれば図入りの書面でやり取りしたいのだけれど、そんなことをしなくてもお客さんはそれぞれ満足したり不満足したり、案外曖昧なままで続いている散髪文化って考えてみると面白い。
ツーブロックにしてください」
 当初から予定していた爽やかさと快適さを兼ね備えていそうな髪型を述べてからの丁々発止のやり取りは割愛して、完成した髪型を、美容師さんが折りたたみ式の大きな鏡を持って背後に立ち後頭部までしっかり確認させてくれるのだけれど、サイドの刈り上げがかなり上の方まで攻め上げており、頭頂付近の長い髪は左右で微妙に長さが違うというアシンメトリー構造になっていて、坊主のちょっとした反社会的側面など気にならないくらい奇抜な髪型になっていた。
「どうですか?」と美容師さんが問う。
「いいですね」と僕は答える。
 答えながら僕は冷や汗が流れるのを感じている。このアシメツーブロックのかっこいい髪型の人は誰だ。まともに鏡が見られない。この髪型でスーツを着て通勤電車に乗ったらすごく浮いてしまうのではないだろうか。軽薄なアーティストくずれみたいな髪型だ。これは誰だ。お金を払って逃げるようにして床屋を後にした。
 この世の中の何事も予想通りにはいかないものであるが、予想通りにいかないから面白いのであって、せっかくなので奇抜な髪型のまま出勤し、周囲を驚かせようと思う。その驚きだって1週間もすれば人は慣れるってことを僕はもう知っている。上司に叱られたらまた坊主に戻ればいい。坊主は僕にとって罰ではない。髪型はどうでもよくなってきていたから、かっこいい髪型だって本当はどうでもいいんだ。取り返しがつかないという不安を一度味わったら、失敗したという思いがどんどん少なくなる。こう考えることもできる。行動の数だけ自由になっていって、スキーで最初に習うのは転び方で、挑戦する時にはいつも新しい自分がそこに立っている。

 

彼岸花

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 あひるを読み終える。
 本棚に文庫本を置いて、リビングのごろ寝マットレスに横になる。
 アマゾンプライムビデオで映画を見る。
 中東のテロリストをFBIがやっつける。
 その間に何度か眠った。
 心がそわそわする夢を見る。
 目覚めた時、夢の中にいるのか、現実にいるのか、少しだけわからない。
 居住まいを正してそわそわしている。
 理由がみつからなかったので、気持ちが落ち着いてくる。
 洗濯機を回しながら氷を読む。
 麦茶を喫する。
 洗濯バサミ集合体に靴下をかける。
 ハンガーにシャツをかける。
 洗濯機置場の周りは、よい匂いのする空気になる。
 サコッシュに財布と家の鍵を入れる。
 やわらかく、かるいスニーカーを履く。
 部屋のドアに鍵をかける。
 午後四時の空はまだ明るく、マンションの廊下から見える住宅街を縫う道の上に、犬を連れた女性の姿が見えた。
 ぬいぐるみのような犬。
 左のポケットをはたく。右のポケットをはたく。右のポケットに入っている。
 階段には虫の死骸がひとつも無くなっている。
 住宅街を抜けて小川にかかる橋を過ぎる。
 橋の向こうには鉄塔が伸びている。
 桜並木の道を横切ると、いつもの散歩道に出る。
 川沿いの土手からは、野球場の上に散らばる少年達が見える。
 歩きながら携帯端末で火夫を読む。
 目の端に、ぽつんと真っ赤な色が映える。
 土手の坂に彼岸花が咲いている。
 もうそんな季節なんだ。彼岸花を見るのは、一年ぶりなんだ。
 カルルは自分に言い聞かせた。
 三時間かけて9.3km歩く。
 太陽が地平線の上の雲に隠れていく。
 真っ赤に膨らんで、雲に滲んで溶けていく。
 横を追い抜いたランナーが立ち止まり、携帯端末で潰れた太陽を撮る。
 それから走り出す。
 暖色から寒色へ無限のグラデーションが続く空の下で僕はまだ火夫を読んでいる。
 蝉の声がもうしないことに気がつく。
 野球少年の声もない。
 びょうびょうと空気の振動だけが川の上を移動していく。
 今夜はあつい風呂に入ろうと思う。

 

 

 

今週のお題「○○の秋」

 

きらきら

 高校生の頃、音楽のフェスティバルというものがあると知って、憧れた。すごいミュージシャンが集って一日中ライブをやって過ごすのだそうで、見に来る人々はみんな音楽が大好きで、野っぱらを歩き回ってビールを鯨飲したり、見知らぬ者同士肩を組んで歌ったり、時には雨に降られてびしょ濡れになったりするのだとか、それは楽しそうだなあと思ったし、いつか行こうと思っていた。

 高校生ではなくなってもう随分経つけれど、当時に比べると音楽というものに対する真剣さは薄れてしまったけれど、それでも今でも毎日聴く音楽があって、ずっと好きな音楽があって、ずっと好きなミュージシャンがいて、そのミュージシャンがフェスに出るのだということが分かって、そのフェスの日がちょうど会社の休日と重なった時に、行こうと思った。

 フェスには参加したことがないし、出演者の名前を見てもぜんぜん分からないバンドが多くて、すこし気後れしたけれど、ずっとどきどきしていた。会社でもわくわくしていたし、緊張していた。電車に乗って群馬に向かう時も、ホテルにチェックインする時も、前橋駅の周辺をぶらぶらしている時も、何かを待っている気持ちが続いていて、そんな気持ちになることって、最近はすっかり無かった。僕が演奏するわけでもないし、ただ音楽を聴きに行くだけなのに、緊張しているのは何故だろう。どこかへ、ただ観光に行くときとは明らかに心の動きが違うからとても不思議だった。僕は緊張している。それはおそらくステージの上のミュージシャンに、音楽で何か問われるから、あるいは音楽で言葉を受け取ることだから、落語や演劇と違うのは、ロック音楽が剥き出しの言葉だからではないだろうか。だからたぶん、おそれているんだと思う。自分らしさみたいなものを揺るがされるのではないかと思って、あばかれるかもしれないとおそれながら、楽しみにしているのではないかな。

 ホテルの周りに食べ物屋さんがあまり無くて、好きな文章を書く人がやっていたみたいにコンビニで食べ物を買おうかなと考えるとほのかによい気分がする。旅行への姿勢として、僕は旅は生活だと考えているし、生活は旅だと考えていて、その根底に、何年も他人の家で暮らしていたことが関係しているんだと思うけれど、母がこの前言ったみたいに「あたしがいる場所があんたの故郷だ」と同様の意味で、僕がいる場所が僕の居場所なんだ。当たり前のことだけれど。

 夜勤明けで、見知らぬ町を散策する元気もなくなって、意識が朦朧としてきたからホテルに戻ってお風呂に入りながら音楽を聴いた。それからかさかさの真っ白なシーツに潜り込むと、かつて寂しい感触だと思っていた素っ気ないシーツの手触りに、まあまあ心地よい距離感のぬくもりを感じている。眠れないだろうなと思っていたのに8時間ぴったり夢も見ないで眠った。

 目覚めると11階の窓の外は晴れていて、赤城と榛名の裾がぬーんと伸びているのがビルの隙間から見えている。いつまでもだらだらしていたくなった。ニュースを見ながらベッドに寝転がっているうちに何故か、何も用事がないような気分になって、このまま寝ようかなという思いが強くなったから、服を着替えて町外れのドームに歩いて向かった。

 ルールが分からないので人の群れに着いていくことにして、チケットと引き換えにプラスチックのリストバンドを貰い、薄暗いコンクリートの通路を流れのままに進むと、天井がものすごく高いドームの中に進んでいて、アリーナ席にはもう人がひしめいている。所在無い気持ちが強くなって、なんとなくあまり人のいなそうな区画に入って立ち尽くした。立ち尽くしている時、僕はどこでも地蔵なんだなあと思って悲しいのだか楽しいのだか分からない気持ちになった。周囲の話し声や笑い声が随分耳に入ってくるし、携帯を操作するのも本を読むのも場違いな気がしてステージをずっと見ていた。ステージは赤かった。

 しばらく待っていると大きなモニターに龍が出てきて出演者の名前が大きな音と一緒にあらわれる。バンド名が出るたびに、おそらくファンの方が、あちこちでワーッと叫ぶ。僕が好きなバンドの名前が出て来た時、僕も一緒にワーッて言いたい気持ちになったけれどできなかった。でもやっぱりわくわくしていた。

 最初のバンドの人達が現れて、演奏を始める。物凄く大きなスピーカーから出力される物凄く大きな音が、耳の奥でぎーんと鳴り続けていた。最初の方々は、笑ってほしいんです、と言っていた。それで、それまでも笑っていたけれど、きちんと笑っていいんだなあと分かって、笑った。それから何故か運動会になって、大縄跳びを飛んだ。

 僕の好きなバンドの出番が来た時、なるべく彼らが近くで見れる場所がいいなと思い、ステージに近い場所で待った。彼らが真っ白な強い光の中に現れた時、楽しいとかうれしいとかの感情はなくて、ずっと「あっ」と思っていた。何度も聴いた歌を彼らが演奏して、それを口ずさみながら、時々下手くそに手を上げながら、僕は「あっ」と思っていた。どんな行動をすれば気持ちに沿うのか分からなくて、表情もよく分からなくなって、ただ見ていようと思った。歌うのも、手を上げるのもやめて、棒立ちになって、目を奪われながら、笑っているような泣いているような変な顔をしながら、人がそうしているからそうするっていうのはやめて、僕が好きなように見てもいいんだって、たぶんそういうことを彼らは歌っていたような気がしたから、ただどきどきしながら、すこしおそれながら、僕は敬意を払って棒立ちでいたい。彼らは歌を歌って、楽器を演奏して、ほとんど喋ることもしないで、ステージを去った。

 ホテルに戻って、ピザーラに電話をかけた。11階までピザを配達してもらうことにして、かさかさのベッドに寝転がりながら、自分が何を見たのか整理しようとしたけれど、やっぱりよくわからなかったから、よくわからないきらきらしたもののままで、お腹ん中の宝石みたいに、消化されずに残ればいい。

 

あぐねリリース

 なんかのサイレンが町を満たす東京。その朝の光は故郷の窓から見た光と同じこともある。
 モンゴルの草原の空と、荒川の河川敷の空は、実は繋がっているんだなと当たり前のことを当たり前のように感じられてうれしい。
 僕が一番好きな俳句は種田山頭火さんの"お寺の竹の子竹になつた"という作品だ。
 先日はコンクリートの町を練り歩く機会があったので、外圧に押し出されるようにして歌っていたのはクロマニヨンズのギリギリガガンガンのサビパートで、歌詞は次のようなものである。"ギリギリガガンガン ギリギリガガンガン 今日は最高 今日は最高の気分だ"
 種田山頭火さんと甲本ヒロトさんの詩には大好きな部分がある。
 あぐねていた些末な気持ちがいつまで経ってもまとまらない。
 ネットは川で、言葉は魚。どこに向かって行くかは不明である。

 

にわとりサンバ

 食べ物にあまり興味のなかった僕が人生で一番おいしいと思ったにくを、誰かに食べさすたいと思ったのでゴーレム君に声をかけると、成り行きでSさんとジェントル先輩を誘うことになり、四人で焼肉屋さんを予約したのであるが、Sさんが急用でキャンセルしたいと腹痛をこらえるような表情で申したので、気の毒だったけれど三人で予約し直します、とゴーレム君がアレンジを加えて雨の降りしきる渋谷のスクランブル交差点横のTSUTAYAの前の有象無象の中に、我々三人が立ち尽くしている時、信号が青に変わり群衆が四方八方に入り乱れる。
 ししみさんは酒豪だから、あるいは酒乱だから、鬼だから、とジェントル先輩がふふふと笑って僕とゴーレム君を地下へ誘い、隠れ家というにはあまりにおしゃれなバーだかパブだか、要するに酒をごんごん出してくる場所に押し込んで丸っこくて妙に小さなテーブルを囲むようにして三人で椅子に座り、話す言葉がなにもない。話すべき言葉はとうに話し終えており、仕事の話は味気なく、プライベートを話すにはこのパーティーの親密度が足りない。加えてゴーレム君はジェントル先輩に対して人見知っており、ジェントル先輩は大人理論によって人に会話を無理強いしない。となると二人とそこそこ仲がよいと自負している僕が話題などをごんごん提出してお二人を楽しませて仲良くなってもらわねばならないという義務感にも似たお節介がパフォーマンスを発揮するのだけれど、そもそも僕は日頃から「草原のベッドで寝たい」などと考えているだけの天気の傀儡であるから話題などは特にあらない。すると何が起こるかというと三人の間にひたすら天使のさえずりが轟くだけなのである。ウエイターさんがやってきてオレンジジュースとオレンジジュースとジントニックを置いて去る。僕だけ酒であるから、この最初のひとくちのリアクションできっと全てが上手く回りだすに違いないと思ってぐびりとやってからくーっ、うめえうめえ! ポンヌポンヌ! などとやってみたけれどジェントル先輩はによによと笑うばかりでゴーレム君に至っては手遊びを始めていた。僕は無理をするのはよくないことだなと思って赤面した顔をおしぼりで冷やしながら草原のベッドに思いを馳せた。
 そういうことがあってこの度のパーティーはきっと失敗するに違いないと思った。

 しかし人生というのは塞翁さんのお馬さんのようなことで、元はと言えば食べ物にあまり興味のなかった僕が人生で一番おいしいと思ったにくを、誰かに食べさすたいと思ったのでゴーレム君およびジェントル先輩を誘ったんだから、おいしい肉を食べさすことができればそれでよかったのだから、予約した店の前で三人でうろうろしたり、ガラスから中を覗き込んだりして大層不審者ぶりを発揮したあとおとなしく店に入って椅子に座っていると串刺しにしたでっけぇ肉を外国の人がナイフでぶすりとやってずばっと切られた肉片が白い皿の上に綺麗に広がり挨拶もせぬまま三人でフォークで滅多刺しにしてそれを羅刹のように口に運ぶのだ。噛みしめるたびにうまい。噛みしめるほどに美味である。こんなにうまいにくは他にはないに違いないと僕は思うのだけれど思いを放つような真似は誰もしない。世界最高のうまいにくを前に我々三人はやはり固く口を結んでもぐもぐやっていた。誰も不本意をしない世界がほんのわずかに形成され始めた時、ステージでギターを爪弾いていた赤いシャツのボサノヴァ歌手の方がうらららと叫んでオーレイみたいなことを絶叫しはじめた。すると今までしめやかなおしゃれムードだった店内がにわかに活気づき、ミラーボールが光をごんごん反射してディスコティックになり、歌手の手拍子に合わしてお客がハンズをクラップし始めた。サンバです! サンバです! とゴーレム君が顔をこわばらせて肉のことも忘れて、安いステーキのように身を固くした。ジェントル先輩はまいったなこれはという顔をしてお義理の手拍子をしていた。僕はわあショーだなんかのショーだと思って頭の上でぱんぱんぱんぱん、ぱんぱんぱんぱん、シンバルを鳴らすお猿さんの人形のように元気いっぱいに拍手をした。すると店の奥から赤い羽を体中にあしらった筋肉質の女性が手をひらひらさせながらホーゥと叫んで現れた。そのすぐ後ろには金色の羽をあしらった筋肉質の女性が腰をどぅるどぅる回転させながらホーゥと叫んで現れた。二人の女性は店内を竜巻のようにぐるぐると踊りながら回り、各テーブルの横にくるとお客さんに向かってダンスを見せつける。私のダンスを一番近くで見ろ。そんなことは決して言わないけれども踊りこそがそれを表現しているのだ。もちろん僕たち三人はみんな目をそらした。それから恐ろしいことが起きた。赤い女性が隣のテーブルのお客さんの手をとってステージに連れていったのだ。金色の女性も各テーブルから活きの良さそうな人物を連れてステージに上った。そこで人々は練習したこともないサンバを見様見真似でぶるぶる踊り狂うという趣向であった。ぶるぶると世界は振動をはじめていた。ボサノヴァ歌手の奏でるギターは激しくかき鳴らされ大地の心臓みたいなビートが店内を揺らしミラーボールは目眩を続けている。ステージに上げられてしまった眼鏡の痩せた男性はすごく真面目な顔でダンサーのパフォーマンスを一瞬で習得し生真面目にサンバを踊っていてそれが妙に面白くぱんぱんぱんぱん、僕の拍手をあなたに捧げる眼鏡の方にと思っていたら魔手は我々のテーブルにも伸びゴーレムくんとジェントル先輩は腕をつかまれた。ゴーレム君は空いた手を僕に伸ばし、口をぱくぱくさせていた。周囲の音がうるさくて何を言っているのかよくわからなかったけれど、たぶん助けてくださいししみさんみたいなことを言っていたんだと思う。聞こえなかったからよくわからないけどもしかしたら子供のころザリガニ釣りしましたよね? とまったく文脈に関係にないことを言っていた可能性も微粒子レベルで存在している。ゴーレムくんとジェントル先輩はダンサーに連れ去られ、結局サンバを踊っていた。踊る二人は輝いていた。ダンスは、それは未熟ではあったけれど、にこやかであった。技術はいらない。そんなものはぜんぜん必要ではない。ほんとうに大事なのは、楽しむ心ではないのか。
 サンバタイムが終わって二人は席に戻ってきた。ゴーレムくんはテーブルの一点をみつめて動かなくなり、ジェントル先輩は「俺は踊っている間、ししみを殺そうと思っていたよ」とにこやかに言った。このパーティーは成功だったのだと思った。何が起こるかわからないのだなと思った。つまらないかもしれないと思うことでも面白いことはあるし、その逆もあるから全部大体予想通りになんかならないから予想通りにならないまんまがよい。
 ゴーレム君は朝が早いので先に帰宅し、ジェントル先輩は薄暗いバーに僕を連れて行ってタピオカミルクティーを飲んだ。僕はマティーニを飲んでオリーブを余した。僕とジェントル先輩の間にほとんど会話は無かった。彼と何回かご飯を食べた時、彼の言った言葉が僕は好きでそれは僕が前からなんとなく思っていたことだったから、たぶんそういうのを馬が合うとか言うのだろうと少し思うのだ。
「話さない関係もあるよね」と。それはロマンチックな意味ではなくて、絆でも共有でも同調でもない寛容さが顔を出す以前の、すごくシンプルな相互理解のお話だ。にわとりは空を飛ばないよねって、チキンとかかって自虐がややこしい。そして重要なのは一度形成された相互理解は不変ではないということで、人の心はミラーボールのようにごんごん変わって行くので、もうブッダやパンクスが言うようにNO FUTUREでNO PASTで生きているなう。

 

老人

 東の空に巻きあがる入道雲は大切なものを隠しているように見える。近づいてみれば色も形もないはずの水蒸気が硬く凝集して要塞のようだ。あの白い壁の中には何か大切なものがある予感がする。記憶の遥か彼方、もう霞んで見えないくらい遠い日々の中で、僕はたしかに見たことがある。たくさんの記憶が渦を巻いて硬く凝集している。思い出したいことは何一つ思い出せないのに、どうにもならないことだけは意識の表層に浮かび上がってくる。思うようにならないものだ。涼やかな風が吹いていた。風は草と土の匂いがした。まるぼうずの丘の上は風の音ばかり聞こえていた。時折、頭上にふるふると甲高い声で鳴く鳥がいた。大きな翼を羽ばたかせもせず、青空の一点を中心に、綺麗な円を描いてゆっくりと旋回している。鳥の影はぼんやりと輪郭を失い、いずれ空に吸い込まれて見えなくなる。いつもそういうことをしている鳥だ。いつも僕が丘の上に座っているように、その鳥はいつも空に吸い込まれていく。陽の高いうちは鳥を何度か見かけるけれど、たまにしか見かけないものもある。それは丘の麓のずっと向こうから歩いてくる。ぎらぎら輝く緑色の草原を、こちらに向かって一直線に進んでくる。右手にとがった木の枝をぶら下げて、つばのついた緑色の帽子をかぶって、毛むくじゃらの白い犬を連れている少年だ。陽に焼けた肌は浅黒く、伸びた真っ黒い髪が鈍い光を放っている。少年は僕の背中側に回ると、しばらくそこで何かしている。白い犬の息遣いが右や左に移動する。しばらく経つと、椅子の足にかつんと木の枝が打ちつけられる。背後に立った少年が言う。
「今日は何を見た」つぶやくような、ひとり言のような、低い声だ。
「空と、鳥と、草原を見た」
 少年は僕の前に回り込み、まるで悪霊にとり憑かれたように激しく枝を振り回した。その姿を見た白い犬は興奮して吠えた。気が済むと、少年と犬は再び僕の背後に回り込む。それから木の枝が椅子の足を小突く。
「今日は何を見た」
「変な子供」
 すると少年は鳥のように甲高い声で笑った。毛むくじゃらの犬を連れて、飛び跳ねながら草原を駆けていく。いつもそういうことをしている少年と犬だ。名前も知らない少年と犬だ。少年はいずれ、この場所には近寄らなくなるだろう。そして忘れるだろう。
 たくさんのことを忘れている。大事なことも、大事ではないことも、すべて入道雲の向こう側にある。手に入れることができない、けれど確かにあると分かる場所にある僕とは全く関係のない大切なものは、遠い昔に失った、かつては価値のあった感情と記憶の凝集した、色も形もない煙だ。
 太陽が地平線に沈み、濃紺の空に星がまたたき始めた頃、椅子を畳んで家に帰る。パンを食べる。ベッドに横になり、ランプの灯りで本を読む。夜にしか鳴かない鳥が鳴いて、いつの間にか眠っている。

 

今週のお題「理想の老後」

 

本について

 定時の1時間前にほとんどの仕事が終わり、業務用モニタの前に座って高円寺について考えていると、隣の席にモヒカン先輩が音もなく座り、あざやかにマウスを操作してインターネットに接続し、残時間1hをネットサーフィンに費やすつもりであることを示唆した。
「読もうと思ってさ、普通の本を」と彼はつぶやく。
 普通の本という言葉の意味が分からず、その定義を問うべきか迷ってしまう。人の放つ言葉を解釈するのはいつでも難解だ。頭の中の幾何学模様を伸ばしたり縮めたりしているうちに、彼は新しい言葉をそっと放り出す。
「あれはテレビで見たんだよ、山に行った三人が恋? 恋をしてさ、ひとりが死んじゃって、事故かと思ってたら山に登る前にはちみつ? はちみつを飲ませてて、それが体に悪くてあとから効いてきたっていう話で、すごいよね。ねえどうなんだろうね、それは罪になるの?」
 事実を整理したい、と強く考える。モヒカン先輩が友人だとしたら、微に入り細を穿ち質問をしたい。けれどモヒカン先輩はいわゆる上司で、僕はただの部下であり、ここは本の内容を精査する場ではなく、終業前のしずかなボーナス・ステージだった。それはシリーズものですか? それとも一本で完結のドラマですか? と、当たり障りのない質問をしてしまう。
 彼は質問に対して曖昧にうなずきつつ、インターネットを検索して件の作品名を調べ上げ、教えてくれる。有名なミステリー作家の小説だった。その作家の本は3冊読んだことがあるけれど、モヒカン先輩が教えてくれたお話は知らなかった。
「なんかいい本ないかなあ」彼は言葉を宙に漂わせる。
 つまり、こういうことだ。おそらくモヒカン先輩にとって普通の本とは小説のことで、おそらく彼はミステリー作品を探していて、おそらく僕に何かないかと聞いている。明確な言葉はひとつもなかったけれど、おそらくそうなのだ。そして僕はその質問にうまく答えることができない。他者におすすめの作品を語ることがとても苦手だし、ミステリーに詳しいわけでもないし、そもそも本について詳しいわけでもない。それでも何か答えを提示したいと考えたのは、見栄のためかもしれないし、彼が僕に与えた役割をまっとうしたいと考えたからかもしれない。
「い」さかこうたろうさんの本が面白いですよ、というのはとても妥当な答えではないだろうか、と考えて口に出した言葉は、彼の「山田なんだっけ」という言葉にかき消される。
リアル鬼ごっこの」と、突然明確な言葉を得て僕の脳は途端に活性化する。
山田悠介です」
 モニタには山田悠介さんの著作がずらりと表示され、「これは読んだ……これも読んだ……なんで俺、これ読んだんだろう……」彼の呟きが連なる。
 ならば東野圭吾さんだ、と見当をつけた。もはや推理ゲームだった。
 先程の有名作家さんの作品も映像化されていたし、山田さんの作品もたくさんメディアミックスされている。つまりそのような傾向の作品が彼は好きなのだ、と考える。伊坂さん宮部さん道尾さん、その辺だ。乙一さんではないし森さんでも綾辻さんでもない――と連想を続けているうち、急に心が静まりかえった。それは僕が話題に合わせてグルーピングした作家さん達であって、僕の中でしか意味をなさない地図だ。そんな風に、自分の中にイメージや体験を築き上げていくことも読書に含まれているのに、彼の好みを推測しただけの浅はかな答えを示して何になるのか。本を読むってもっと個人的で内部的な活動ではないのか。示すべきはモヒカン先輩が望んでいそうな答えではなく、僕が彼に読んで欲しい本ではないのか。それが僕自身の本当の答えではないのか。僕が彼に読んでほしいと思う本なら、決まっていた。
「ド」グラマグラっていう変な本があってですねと言いかけると彼は「そういえば芦田愛菜ちゃんの本知ってる?」と言いながら芦田愛菜さんの新刊、『まなの本棚』を検索し始めた。そしてすごく真剣な顔で言った。
「これ文章じゃなくて、まなちゃんの写真集だったらよかったのにね」
「そうですねまなちゃんはかわいいですからね」
 ドグラマグラって言わなくてほんとに良かった。

 同じ料理を囲む時、あるいは同じ映画を並んで見る時、同じチームでスポーツをする時、他者と時間を共有することは簡単だと思う。
 けれど本はひとりで読むものだから、本から受け取った本当のことを話すのはすごく難しいのだと思う。読書は人それぞれの人生が前提にある解釈をするから、だからこそ意見が分かれたりして、そこに意味があるのだけれど、その不一致を楽しいと思えない人と話をするのが難しいということでもある、のではないかなあと、ぼんやり考えています。