ガラスのくつ

 ガラスのくつが欲しいのに、ガラスのくつの楽しみ方がわからないことに気がついた。
 それはおそらくとてもうつくしいもので、はかなく、高貴だ。
 しかし、それだけなんだものな。
 ガラスのくつを履いて、旅にでも出たい気分で、それはガラスのくつの本当のことを、何も知らないからだと、不意に分かった。
 電車の窓に映る、疲れた顔を見て分かった。
 本当に必要なのは、ガラスのくつではなく、きっと丈夫なスニーカーだ。
 つまずいても、蹴飛ばしても破れない、ふつうのスニーカーだ。
 ガラスのくつが欲しくなったのは、自分ではないうつくしいものになりたかったからだろうな。
 本当に必要なのは、きれいじゃなくてもよかったのにな。

 

 

池袋のめまい

 あわただしく炎天下を歩き回っていた。バスが出るまで1時間。その間に駅で定期券を更新し、ブックオフでスッタニパータを手に入れ、銀行で預金残高を確認し、コンビニでモンスターエナジーを買わなければならなかった。多忙だった。多忙たらしめているのは自分だと気がついていた。

 本当は家で寝ていてもよかったので、何度かそうしようと思った。エアコンの効いた部屋でごろごろする。ジュースを飲みスナック菓子を食べ絵本を読む。ゲームをする。気が向けばアイスクリームをなめる。机の引き出しの中に入っているスライムで遊ぶ。動画配信サービスを利用して映画を見る。そうして日暮れを待つ。夜明けを待つ。会社にゆく。それでいいのだと思う。
 それでもいいのだと思う。それでもいいのなら、これでもいいのだ、と分かる。家で眠っていることと、外を駆けずり回ることは、休日の過ごし方に於いて本質は変わりない。ただ種類が違っている。種類に良し悪しは無い。好悪があるだけだろう。どちらがより好きか、というだけの話だった。

 最高気温は32℃。額ににじむ汗。涼やかな風がふうわり吹いて、個人的な不快指数は80。晴れ間と曇り空が交互に続くけれど雨の予感は無い。熱を発する硬い石を踏みしめてゆくうちに腹が決まる。歩くのが好きだ。

 バス停からブックオフまでは15分。たどり着いてからは早い。スッタニパータの位置は把握していた。この間見た時に買おうがどうか迷い、手にとり、また同じ位置に戻したから。二階に上がって一番端の棚の中央付近にその本はある。スッタニパータ。”セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教パーリ語経典の小部に収録された経典のこと。”とwikipediaにはある。意味は判然としない。最古の仏典のひとつとされているらしい。1200円。

 値段をつけるという行為は本当におかしなものだ。ブッダさんがものすごく一生懸命考えて苦行をして瞑想をして悟った言葉が1200円。誰かの命を救ったかもしれない教えが1200円。なんだかめまいがしてくる。でもそう、530円のライトノベルで命を救われてもいいのだった。高いとか安いとかは問題ではなく、値段をつけること自体がへんてこなことだった。

 すごくどうでもいいことだけれど、僕は子供の頃、近所の陸上競技場でおけらという虫を捕まえて、一匹10円で友達に売ろうとしたことがあった。おけら売りの少年だった。おけらが好きだった。当時は虫を手でつかむことに抵抗が無かったから、土の上にいるおけらを取って虫かごに入れ、たぶん2人くらいに声をかけたけれど売れなかった。おけら売りは即日廃業した。

 僕の命はおけらよりも安い。欲しい人がないし、売ろうとしている人もないから、ただいま無料である。ただ僕の時間には労働力という付加価値がついてきっちりと値段がついている。まったく頭がへんになりそうだ。

 コンビニの剥き出しの冷蔵ボックスから青いモンスターエナジーを1本取ってレジに向かうと、線の細い女性が間髪入れずバーコードを読み取り「袋いりますか」と問うてくる。洗練されたプロの技だった。僕がバッグを持っていることを一瞬で見て取り、袋の要否を尋ねた。これが技術なんだ、と思うのだけれど、お財布から素早く小銭を出す技術が僕にはないので「見ないで、見ないで」と言いたい。足りないのはお客の技術。今度からはお支払い金額をきっちり用意し、店員さんがピッとした瞬間にレジテーブルに小銭を並べよう。大きい方から順番に、数えやすいようにして。

 コンビニを出ると残時間は30分。早足で駅に向かう。終わりかけた夏なのに蝉の声はまだ聞こえている。季節は人が決めるものではないのだしね。人々は半袖を着ていて、おじいが自転車をこぐ速度は風よりもゆっくりだ。青いモンスターエナジーを飲み終えると同時に駅に着き、自販機の横のゴミ箱に缶を捨てた。乾いた金属の音がした。

 定期券売り場の自動ドアをくぐると清浄な、冷却された空気が薄い膜のように感じられた。定期券を更新し終えると、バスが発車するまで残り5分だった。駅からバス停まではすぐだから、にわかに安心している。ぎりぎりだったけれど、マッチポンプな多忙を、ついにやり遂げる。

 バスの中は涼しくて少し眠い。窓際の席で『ブッダの教えが分かる本』を読んでいた。つい先日、子供向けの聖書を図書館で読んだため、今度は仏教も知りたくなった。宗教って一体なんなんだろう、と勉強する気にもなっている。良い面も、悪い面も知りたい。時々目を閉じて休ませた。時々窓の外を眺めた。目を細めて信号が変わる人たち。

 パチンコホールの3階にある映画館に着いた。全てを見え終えると、18時を回っていた。ぬるい風が、まだ薄い夕闇と同じくらいやわらかい。混み合った池袋の町を歩きながら、ふと携帯の電源を切ったままだという事に気がついて、駅前で電源を入れた。なんとなくブログを見た。自分のブログを見て、それからよく見させて頂いているブログを見た。

 手前さんの記事を目にした時、激しいめまいを感じた。自分を表す名前がそこに書かれているということが、うれしくてはずかしくておもしろい。どういう風に返事をしようかと考えた。何を返せるだろうか。僕は何を感じただろうか。ブログに書けないことまでぐるぐる考えた。だから今度、ブログに書けないことを送ろうと思った。
 僕も最近、彼女が言うように、好きな人に好きということを少しだけ実践したところだった。当たり前のことだけれど、僕の考えを変えるのは、えらい神様の言葉だけじゃない。

  

会議室キャンプ

 夜勤の業務が終わる時間帯が、ちょうど終電が無くなる時間なので、僕たちは仕事を終えたあと、仮眠室や休憩室、という素敵なものがないことによって、会社のあちこちに適当に散らばり、休むことになるのだけれど、人によってはバックヤードのテーブルの上をねぐらにしていたり、玄関のロビーのソファーで寝ています、というびっくり豪傑もいるくらいなのですが、たいがいの人は、仕事部屋の横に3つ並んでいる、会議室で休むことになりますし、かくいう僕も、研修の時に教えてもらったとおりに、赤青黄色の、3つの会議室のどれかからひとつを選んで、翌朝の7時くらいまで休憩することになります。

「それでは僕の方の業務が終了しましたので、お先に休ませていただきます」
 と諸先輩方に挨拶をし、ロッカーの中に入れておいた空気枕を携えて、書類鞄も持って、黄色の会議室へ向かいます。会議室は青が一番広く、黄色が中くらいの大きさで、赤がとても狭い、という構造になっていまして、何故か一番狭い赤が人気です。きっと人が眠る時、あまりに広すぎると落ち着かないのでしょう。カプセルホテルはあっても、満天の星空の下で眠るサービスというのは、あんまり聞いたことがありません。僕はモンゴルの草原に、ベッドを置いて風の音を聴きながら、馬のいななきを聴きながら、狼の遠吠えを聴きながら、眠るのが夢なので、もし星空で寝るサービスというものがあったらば、そんなものは心底、素敵だなあと思います。

 黄色い部屋に入って、鞄を椅子に置いて、それから壁際に寄せてある椅子を三脚寄せ集め、即席のベッドを作ります。それはもう、見るからに寝心地の悪そうな、粗末でかわいらしいベッドです。椅子を3つ並べて眠る時のコツは、1つを頭に、1つを腰およびお尻に、最後の1つを足を乗せられる場所に並べること、つまり一直線に並べることです。これが曲がっていると、眠る時に体が曲がってしまいますので、注意が必要です。並べ終えましたら、きちんとまっすぐになっているか、少し離れて確認します。それから慎重に、椅子を動かさないように、そっとベッドに横になります。この時、必ず椅子は動きます。どれだけ慎重になっても、椅子は動いてしまいます。動いてしまったら、取り乱さず、「ああ、やっぱり動いたな」と呟き、動いてしまった椅子に体を合わせます。人生の大半の出来事と同様に、現実は不随意なものです。おおらかな気持ちで、椅子をゆるしましょう。

 椅子にはふかふかのクッションがついているので、暑くなってきます。暑くなってくると眠れませんので、いっそテーブルの上で寝てみましょう。細長いテーブルの上に、靴を脱いであがった時、なんだかとても人間として、やってはいけないことをしている気持ちになります。罪悪感のような、違和感のような、おかしな気持ちがこみ上げてきて、眠気が覚めます。眠気が覚めたら、「椅子にしてもテーブルにしても、結局眠れないじゃないか」と思いましょう。そうです眠れないのです。眠れないけれど、体は疲れているので、固いテーブルに身を横たえ、天井などを眺めます。すると不思議なことに、天井がごくゆっくりと回転しているような錯覚を覚えます。とても暗い会議室の天井は、まるで1852年の太平洋を横断中の商船の、船底に近いキャビンの壁に造り付けた、ごろごろした木のベッドに思われてきます。僕は見習いの船夫で、右も左もわからないままに一日の仕事を終え、熊のような先輩方が、ぐうぐういびきをかいている部屋の中で、眠れないままに天井を見上げている、という気持ちになってきます。あるいは僕はどこかの国の兵隊で、行軍中にみつけた山小屋の床で体を休めているような、そんな気持ちになってきます。どちらにせよ、固いベッドの寝心地の悪さは、その不快感は、生きているということを、まざまざと僕に思い知らせます。眠れないが故に冴えていく目と、尖っていく精神と、それでも体を横たえたい疲労と、決して思い通りにならない寝床の固さと、それでも今この瞬間だけは間違いなく安全だという安心のすべてを、僕はときどき、尊く思います。

 眠れないまま朝を迎えたら、テーブルの上に食べ物を並べます。昨晩のうちに買ってきておいた、味のないフランスパンと、サーモンとチーズの生春巻きのパック、それからぬるくなったお茶です。食べ物の横には、携帯電話や充電器、社員証、結局使わなかった空気枕、スマホから引き抜いたイヤホンなどが雑然と置いてあり、なんだかキャンプみたいな気分になります。とても瞬間的な生活感。どんな場所でも、人間が寝泊まりするところに現われる、生きた痕跡のようなもの。テントも青空もない、会議室のキャンプ。固いフランスパンをばりばり噛んで、生春巻きを手づかみでむしゃむしゃ食らい、今日も都会を冒険します。

関係のない爆弾

 家のチャイムが鳴ったので、ドアについているのぞき穴をのぞいた。すると魚眼レンズの向こうに悪鬼羅刹のアキラくんが立っているのが見えた。
 アキラくんは「こんにちは、かわいい子羊です」と猫撫で声を出した。嘘をついているのだ。しかもすぐばれてしまう嘘を、堂々とつくのだ。やはり悪鬼羅刹である。
「アキラくん、帰ってください。僕は忙しいのです」
 鍵を開けずに応える。実際、すごく忙しかったのだ。
 時刻は朝の6時で、僕は今シャワーを浴びてスラックスを履いたばかりで、着替え終わったらすぐに家を出て会社に向かって、電車の中では読みかけの本を読んで、とにかく忙しいのだ。
「ここを開けろ。さもなければ、大暴れをしてドアを壊して、不快なものをまき散らし、近隣の住人に迷惑をかけて、お前の名誉を著しく貶める」
 なんと恐ろしいことを言うのだろうか。僕はネクタイを締めながらぶるると震えることしかできない。かわいい子羊は、彼ではなく僕ではないか。
「アキラくん、そんなことはやめなさい。僕は今、本当に急いでいるのだよ。大体ね、きみが悪いことをしたら、警察はきみを捕まえるのだよ。きみが不利益をこうむることになるのだよ」
 ネクタイが曲がっていないか、鏡でチェックしながら、ドアに向かって大きな声で言ってみる。
「俺は悪鬼羅刹なので警察なんか全然怖くはないし、人に迷惑をかけることが存在理由なので、急いでいる人を邪魔するのは俺にとって良いことなんだぜ」
 アキラくんはオアハハと高笑いをして、ドアをどんどん蹴っているようだ。
 とんでもない悪意だ。
 僕は焼きたてのトーストにいちごジャムを塗りながら、深く悩んでいる。アキラくんを中に入れれば、おそらく要求はエスカレートし、もっと良くないことが起きるだろう。しかも会社に遅刻してしまうだろう。もし彼をこのまま放置していれば、しびれを切らした羅刹が、先程述べたような悪いことをして、たくさんの人に迷惑をかけるかもしれない。一体どうすればいいのだろうか。一体どうすれば。
「自分、”悟り”いいっすか……」
 そんな声がして、気がついてみると隣に諸行無常のハラミツさんが佇んでいた。
「ハラミツさん、いつのまに中に入ったのですか」
 僕が驚いた声を出すと、ハラミツさんは薄く目を開けて、
「すべての人の中に仏性があるんで……というか無自性なるが故に空なんで……」と、ぼそぼそ声でよくわからないことを言いました。
「いや自分のことは、いいす。自分、あの悪鬼羅刹を引きつけるんで、会社に行ってくださいっす」
 どうやらハラミツさんは僕を助けるために現れたらしい。
 僕はお皿を洗いながら「お願いします」とお願いした。
 ハラミツさんは玄関のドアを開け、アキラくんと何やら口論をはじめたようだ。
 アキラくんはハラミツさんを困らせようとするが、聞いているのだか、聞いていないのだか、ハラミツさんはのらくらと受け答えしている。
 二人の力は拮抗しているのだろう。アキラくんは、悪行をすることによって失うものは何もないのだし、悪いことをすると気持ちが良いという、生粋の悪だからどんなことでも出来る。
 反対に、ハラミツさんは、悟りによって諸行無常が分かっているから、やはり失うものは何もないのだから、悪意がハラミツさんを困らすことはできない。
 アキラくんは欲望がそうであるように、どんどん過激にエスカレートしていくけれど、ハラミツさんはいつまでもフラットで振幅を吸収してしまう。
 出勤する準備を終えた僕は、革靴を履いて外に出る。それから家の鍵を締めて二人の様子を眺めた。
 アキラくんは廊下の壁によりかかり、ハラミツさんの悪口を言っていた。
 ハラミツさんはアキラくんの隣で、ぼうっとしていた。
 そこへ爆弾魔がやってきて、二人の間に時限爆弾を置いて行った。
 本当に、こういうことはよくある。
「爆弾だーーッ! 爆発するぞーーッ!」
 僕は叫びながら、一刻も早く危険から逃れようと、階段を駆け下りた。
 1階に降りる最後の1段を飛び降りた時、左足をくじいてしまい、僕はエントランスの集合ポストの前に転がった。足首がじくじくと傷んだ。肘を擦りむいたので、ひりひりした。派手に転んでしまって恥ずかしいという気持ちもあった。しかし今はそれどころではない。早く立ち上がり、このマンションから出なくてはならない。顔を上げて、出口のガラス戸を睨むと、外は朝の光で美しく輝いていた。暗い廊下から、危険が満ちる建物から、脱出するのだ。あの光に向かって、立ち上がるのだ。細かい砂の浮いた床に手をついて上半身を起こした時、ガラス戸の向こうを巨大な鳥が横切った。左から右へ、羽をわずかに広げ、頭を上げて、太い脚で地面を蹴って走る、大きなダチョウである。数秒後に、作業服を着た大人が二人、サバンナの足音を追って駆けて行く。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、もっと遠くで複数のクラクションが鳴らされる。女子中学生がピンク色の封筒を下駄箱に入れる。フライパンに卵を落とす。自動販売機に硬貨を入れる。イグニッションキーを回す。バッタが跳ねる。かもめが水面の近くを滑空する。風が吹いて、花が揺れる。蕾が、開く。小さな爆発音がして、画面の下から、ゆっくりとTHE ENDという文字が上がってくる。文字が画面の中央に留まった時、僕は立ち上がり、膝と胸の砂を払って、頭をかきながら、出口に向かってよたよた歩いていく。