社会生活

 電車に乗って仕事に行く。
 最近はまあまあ涼しいことが多かったので油断していたけれど、今日は暑かった。
 車内の冷房がなければ、干からびて即身仏に変身していたことだろう。
 通勤中は、いつもスマートフォンで本を読んでいるけれど、夏目漱石のこころを少し読んだ。
 こころの冒頭付近は、なんというか、全然面白いことが書いてあらない。
 けれどなんでだか面白い感じがする。それはなんでだろうなあと思った。

 会社に着いてからは、仕事をした。
 T先輩が隣に座っていて「佐々木希を知らないなんて、ししみさんやばいよ」と言った。
 誰なんだろう。僕はやばいのだろうか。きっとやばいんだろう。
 完全に当てずっぽうで「杉浦太陽さんと結婚した人ですよね」と言ってみたら、
「それは辻希美だよ。ぜんぜん知らないじゃない」と言われたので、笑ってしまった。
 どうして自分と全く関係のない人たちの結婚相手を覚えられるのだろう。
 僕にはすごく難しいことだ。

 M先輩が書類を無くして、仕事フロアをジャッカルのように歩き回っていた。
 気の毒だったけれど、できることは何もなかった。書類は、他の書類に混入して、わけのわからない場所に届けられていた。
 M先輩は書類がみつかったので、子供のように嬉しそうに笑って、T先輩に愚痴をこぼした。

 P部が三回ミスをして、たびたびすみません、ごめんなさいと内線をくれた。
 こんな時、なんと言えばよいのだろうか。僕は本当に「最終的にOKなら何百回ミスっても気にしないですよ」と言いたかった。ミスが起きるたびに、腕立て伏せを10回ずつやらなければならないとなったら、僕は全力でミスを止めようと思うけれど、そんなことはないのだった。
 あの人は仕事が適当だとか、頭がよくないとか、そんなことは僕には言えないし、言いたくもない。そもそも僕はP部が何をしているのか、全然知らない。彼らも、僕たちが何をしているのか全然知らないと思う。それでも、ごめんなさいと言うことは、窮屈でもあるけれど、きっと良いことだなと思った。仕事を通り越して、ごめんなさいね、と言いたくなる気持ちは、それはきっと良いことだ。

 日が暮れて夜になって、U先輩が突然「がちゃがちゃっ! びー!」と言い始めた。
 U先輩は、ほとんど妖精のような人で、時々不可解な音を口に出すのが得意だ。
 僕は、U先輩のエキセントリックな言動に行き当たったら、お礼を言うことにしている。
「Uさんありがとうございます。その音で目が覚めました」
「がちゃがちゃっ! びー! へへっ」
 それで会話は終わりである。
 全く会話になってもいないし、意味もわからないし、意味なんておそらくない。
 けれどなんでだか面白い感じがする。それはなんでだろうなあと思った。

 

お返事

 マシュマロをいただきました。

 

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 またお会いしましたね。あなたがいらっしゃって、僕も大変うれしく思います。
 もう全部やりきったなとか、意図していたことから大幅にずれてしまって、やりたいことと違うものになってしまったなとか、そういう事態になったら潔くブログを辞めようと思っていて、実際に何度かそうしてみて、僕は人を試すことは好きではないのですが、結果として、大変不本意ながら試すような真似になってしまっている自分自身を「あんぽんたん」だと思うこと、しばしばございますが、今回は1年くらいは続けられるように、匍匐前進のようにじんわりと注意深く、やっていければよいなあと思っておりますので、お付き合いいただけたら、ほんとにうれしいことだなあと思っています。

 そのお話とは別に、街角で偶然会うことは、駅の構内でハクビシンを見かけた時のような、なんか不思議な驚きと喜びがあるよなあとも思っていまして、僕がロマニーして、あなたがロマニーして、それで広いのだか、狭いのだかよくわからないインターネットの街角で、偶然見かけて、あっ! いる! って思うこと、すごく面白いことだなあとも思います。ロマニーはジプシーのことですけれども、ジプシーの言葉で「人間」という意味もあるらしく、ながれつづけて淀まない生き方自体に、人間って言葉を与えるなんて、すごく気が効いてるな、宇宙は僕が見ていない場所でもきちんと動いてるな、と分かって、安心もしていますし、その発見はやっぱりうれしいことでもありましたし、そういうことを考えさせてくれた、あなたの書いた文章が力になっています。ありがとうございました!

 

 

 

 このブログではマシュマロを募集しています。
 マシュマロには何を書いても大丈夫ですが、ブログでお返事をするので、他者に見られるのがいやだなあと思ったらメールでお送りください。
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 ご意見ご要望など、どしどしご応募ください。
 それではまたお会いましょう。MATANE!

 

ヤギと馬とあやつり人形

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 近所の公園に動物を見に行った。

 ぶらぶら訪ねて行くと、いきなりヤギが喧嘩していた。

 頭をぶつけ合って、首相撲をしている。

 小さい方のヤギが、むしゃくしゃしているようだった。

 

 

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 馬はヤギの頭突き勝負を見て、舌をベロベロしていた。

 この呑気な馬は、よく舌をベロベロしている。

 鼻の前に手をやると、大きな鼻穴で匂いをかぐ。

 それからまたベロベロやりだした。

 

 

 ヤギと馬を見たあとは、図書館でピノキオの絵本を読んだ。
 ピノキオの話をきちんと読んだのは、今日が初めてかもしれない。
 ピノキオは大変悪い子だったし、ゼペットじいさんだって善人ではなかった。
 言葉をしゃべるコオロギと、青い髪の妖精以外のキャラクターは、みんなどこか歪んでいるようだった。人間の汚い部分や、弱い部分が、皮肉をこめて描かれていた。
 ピノキオは約束や決まりをすぐに破ってしまい、人に受けた恩も秒で忘れ、いつも痛い目にあって、もうしませんと誓うのに、それもまたすぐに忘れてしまう。
 彼は欲望とか、怠惰とか、傲慢とか、そういうものの傀儡だ。
 不思議な大冒険を経て、真っ当な人格を手に入れた時、ようやく人間の体を与えられる。
 カルロ・コッローディさんが言いたかったのはたぶん、約束を守ったり、決まりを守ったり、頑張ったりできるやつだけが人間で、そうじゃないならあやつり人形か動物だよ、ということなんだろうなあと思った。僕もロバにならないようにがんばろう。

 図書館のあとは、いつもの10キロ散歩コースに向かっててくてく歩いた。今日は野球場にもほとんど人がなく、ライダーもランナーも少なかったように思う。歩きながらスマートフォンで本を読むことが容易だったので、にのきんスタイルで歩き回ったけれど、運動によって脳が活性化した状態で読書をすると眠くならないのでとてもよい。アウトドア読書の技術をまたひとつ編み出してしまう。喉が乾いたらかばんからポカリを出して飲む。暑い日に歩きながら飲むポカリスエットは甘露のごたる。テレビCMみたいで少し笑うこともある。

 

秋の風を待ちます

 ペンギンあたりに「あついねえ」と話しかけたら、人間あたりに「なつだもんねえ」と言うだろう。

 暑さも寒さも体力を奪ってゆき、ひいてはやる気を奪ってゆくけれども、暑いときには暑いときのよいことがあったし、寒いときには寒いときのよいことがあったから、結局のところ、暑かろうが寒かろうが、また尋常フラットだろうが、よいこととわるいことの平均値はこれぽちも上下しないのではないか、永遠にエアコンの効いた適切な温度の部屋の中にいたって、ひまわりは咲かないし、雪だるまはできないし、そしたらもう永遠の春の王国で、でっかいちょうちょでも追っかけて、お花畑で暁を覚えずというのも、湯温の低い温泉のようにオダヤカでホンノリよいことであろう。

 残暑が続いているから、残暑から逃れようとすることは道理であり、避暑地や冷蔵庫の中に安寧に見出すのは、これは肉体的に快であるから、人々のフラットになろうとする性向をよくあらわしていると思う。また避暑地といえばおそらく静寂であるから、それは優雅とも言えるかもしれないし、喧騒から逃れるということはすていたすでもあるから、それを持っている歴々はやはり避暑るものであろう。と、これはお財布の軽い・かつ無知蒙昧な僕の意明示に過ぎないけれども、都会的に洗練されたソフィスケイトされた民ならば、それはコンビニエンスストアでも、カッフェエでも、あるいはライブラリでもデータセンターでも、涼しければ避暑といえなくもない、という迂遠な気持ちにWABIかつSABIを感じてみるのも現代人風のエモーションなんじゃない。

 残暑に追いすがることもまた道理である気もして、残暑の暑を追うことは、つまり夏に魂を預けることで、夏をもって至高とする一派が追い求めるは遠いparadiseであり、ハレの気配であり、生き物の発するパッションであろう。夏の一派は渡り鳥のように夏を追い求め、夏と共に移動を繰り返す。考えてみればこの時代、飛行機に乗ればいつだって夏の只中に飛び込むことができる。南国の島にゆけばそこは常夏であるから、夏の一派が夏を夏することに神がかりはいらない。肉体は冬にあれど心は常夏という精神的炎天下を究めた人々は、真冬でも案外Tシャツで現れ、人々の度肝を抜くことがあるけれど、人の幸福が精神的な現象である以上、夏もまた精神的な現象なのかもしれない。

 ここまで夏に対して、あるいは残暑に対して二つのアティチュードを提示したけれど、逃げるか飛び込むか、というだけではなく人それぞれの哲学に沿った過ごし方をすればよいのは自明のことで、見ているだけでもよいのだし、残暑は寝ていますというのもなんだかフンワリしていてよかろうと思う。残暑はこねるものですとか、吊るすものでげすとか、のめして干してたたんでおきますとか、そういうことがあってもおかしくないし、僕の個人的な意見としては残暑は、本のしおりにしておくくらいがちょうどよいのではないかと思案しているところである。

 たとえばこの夏、僕はずっとおんなじ本を読んでいて、この間読み終わったところだけれど、たとえばいつかの冬に本を開いて、そういえばこの本は夏に読んでいたなあ、などと思って、行間紙背からにじみ出る蝉の声などを、白いもくもくの雲などを、日陰に眠っている毛むくじゃらの犬などを脳裏に召喚し――とここまで書いて、どうやら自分があべこべなことを書いていることに気がついたのであるが、どうやら僕は夏を本のしおりにしたのではなく、本を夏のしおりにしてしまったようだった。波間に漂う異国のペットボトルのように夏に翻弄されている僕はまだこの状況を俯瞰することができないのだから、それはそれでよいと覚悟を決めて、スイカを食べず、スイカバーなどをしこたま食べ、そうしてだんだん冷たくなって、秋の風を待ちます。

 

 

今週のお題「残暑を乗り切る」

 

日曜日

 正午を過ぎた頃に目覚め、目覚めてからいつもそうするように、己の心に映るよしなしごとをのぞきこんでみると、そこはかとなく図書館にゆきたい気持ちを発見するに至って、時間を無駄にしないように――というよりも一日が終わる時、後悔しないかどうかを検討する意味で、他の選択肢を挙げようとするのだけれど、思ったよりもしなやかさを失っている心は――しなやかではないけれども、重くもなく、また複雑でもないんだけれど――図書館が最善だと決めてかかっており、その根底には、今となっては非常に貴重な、期待感やわくわく――それは密やかにきらきらしている――までもが確認され、心の全層にて意見の一致をみた。「図書館に行こっと」が可決された。

 空の様子を見るのが好きなんだと思う。
 白ではなくもう薄い青になっている。空気がごく僅かな影を含んでいるから、色が濃く見えるのだと思う。雲は高くなっていて、塊が充分な固さを備えている。雲の半分より下は、やはり灰色の影になっている。秋に近づいているんだ、と何度でも思う。夏はもう終わるのだけれど、そう考えると心が窮屈だから、地球の気持ちになってみたら、1年は1年というだけのことで、諸行無常のおかげで新しいゲームが発売される。万物が流転するおかげで、コンビニのおでんが湯気を上げ、肉まんがやってくる。永遠ってものがないのなら、飽きなくてよいという側面だってあるんだった。

 図書館では子供向けの、戦争の写真集を見た。
 ガザ地区の写真集で、もし友人が目の前で爆弾に吹き飛ばされたら、と考えたら涙がわいてきたので、周りにばれないように目を見開いた。本を閉じると涙はすぐに乾いたので、絵本の聖書物語を読んだ。図書館には、普段は買わないし見たこともないような子供向けの本がたくさんあって、それはわかりやすくて面白いので、時々読むようになった。ものすごく重厚なピノキオの絵本をみつけたときには、すこしときめいたほどだ。キッズコーナーには、膨大な数の紙芝居のセットもあって、どうにかして読めないか考えている。

 17時頃、座っている姿勢に疲れたので図書館を出た。
 川の周りを巡る10kmの散歩コースに向かい、空の色が変わっていく様子を眺めながら歩いた。
 土手の斜面に、黒いコートのような服を着た人が立っていた。肩にひらひらした飾り布がついていて、腰のあたりもなんだかぴらぴらしている。剣は持っていないけれど、騎士のようだ。
 彼の後ろでカメラを構えていた人が「ほら空の色すごい」と言った。
「飛ぼうか?」と彼は言った。
 もうその言葉のせいで、夕暮れの中を駆けている騎士の姿が、脳裏に焼き付いてしまう。