赤ん坊の写真

 電車の中はお湯に似たにおいがする。雨の日は特にそうだった。
 本当はお湯のにおいではない。それは人のにおいなのだと思う。
 たくさんの人間から発せられるシャンプーやボディーソープや、柔軟剤や汗や、新しいワイシャツや革のバッグや、少し汚れたスニーカーや煙草や、焼き立てのパンや新聞紙、それらが混ざり合ったにおいだ。
 たくさんの人間がひとところに集まった時のにおいがお湯に似ている。
 人はもともと海だった。

 車両の端の、隣接する車両へ続くドアの近くに立っていた。
 スマートフォンで勉強をしている。
 目が疲れると携帯の画面から目を上げて暗いトンネルの闇で休ませた。
 トンネルはどこまでも続いているように感じられた。はじめて地下鉄に乗った時には、その長い暗さが面白かった。生きてきた中で最も長いトンネルが眼の前にあって、それは本当にどこまでも町の下に広がっている。地面の中にある。

 優先席の窓に、赤ん坊の写真が貼ってあった。
 赤ん坊は中年の男性に抱きかかえられていた。男性は木製のスプーンに柔らかそうな食べ物を乗せて赤ん坊の口元に運んでいる。赤ん坊もスプーンの柄を握っていて、まるで自分で食事をしているようにも見える。
 写真には白い文字で「ぼくがじっさいになにをたべているかしってる?」という意味のことが書いてある。
 おそらく離乳食の成分についてもっと知るべきだ、という意味のポスターだったのだろう。
 あるいは赤ん坊の親というものは、赤ん坊に食べさせるものについて気を配るべきだ、というポスターだったのかもしれない。
 携帯の画面から目を上げるたびにそのポスターを見た。
 自然と目に入る位置にある。
 立っている僕の前に座っている青いティーシャツの男性も、時々難しそうな顔をしながら、首を傾けてそのポスターを見た。
 僕は彼を見た。黒よりも白の割合の方が多い髪と、こめかみから顎の先までごわごわと生えたひげが男らしい人だ。
 彼はたびたび首をかたむけて赤ん坊のポスターを眺めた。そして難しそうな顔をして、少しだけ首を振りながらうつむいた。
 勉強を続けながら、時々目を上げて赤ん坊のポスターを眺めた。赤ん坊はいつまでも口を開けたまま柔らかそうな食物を口にしようとしていた。
 そして赤ん坊は、まだ喋れるはずのない声で、こう聞き続けている。
「ぼくがじっさいになにをたべているかしってる?」