コンコンブル・ファルシについての無意味な文章

 言葉は言葉を呼ぶ。けれど言葉はあまりイメージを呼ばない。イメージを呼ぶのはイメージだった、と僕は思い出した。一日をぼうっと過ごしていると、言葉を持たないイメージがくっきりと脳に浮かび上がることがある。それはすごくどうでもいいことだ。そういえば僕はすごくどうでもいいことが書きたかったんだった。ただ無意味なことをだった。しかしただ無意味という文章を書くのも難しい。何事にせよ透徹するには細心の注意が必要なのだ。すごく無意味なものってたとえばどんなものだろうかと考えてみると、それは意味の分からない前衛的な絵画のようなものだと思った。すごく意味の分からない絵画を描くのはとても難しいし、普通は描こうとは思わない。すごく意味のわからない絵画が無意味なのは、その絵画にまだ意味が持たされていないからだ。そしてそれは無価値であることとは全然違う。無意味であることと無価値であることは必ずしもイコールではない。無意味だけど良いものがあり、無意味で悪いものがある。というただそれだけのことで、結局のところ価値があるかないかという視点すらも僕の書きたいことの本質ではなかったんだった。無意味だけれど楽しいものが書きたいのだ、と僕は思った。それは僕にとってすら無意味でなければならなかった。そして僕にとって無意味でありながら価値のあるものでなければならないのだった。と考えた時、僕はそういう形の文章をどこかで見たことがあるのだろうか? 一体何をモデルにしてそれを書きたいと考えているのか。自らの中から無意味の鋳型を取り出そうとするとき、僕は相変わらずそれがうまくできない。うまくゆくことがない。それは僕が抱えているものが良い鋳型・あるいは悪い鋳型であり、無意味な鋳型はかつてたしかにどこかで見たことがあるかもしれないにせよ、無意味であるがゆえに失念しているに違いない。意味が分からないものについて覚えておくことはやはり難しいことのように思われた。だから僕は僕の中から無意味を取り出すことを放棄しなければならない。僕が抱えている無意味らしき概念にはすでに僕がなんらかの意味を与えている可能性が高い。僕は僕以外の外部から無意味を調達し、それを無意味のまま書くことにする。そしてここに一冊の調理用語辞典がある。調理用語辞典というのは読んで字のごとくお料理・調理に使用する用語を集めて編んだ辞典だ。僕は非常にお料理・調理にうといからおそらくこの本の中には僕にとっての意味不明があるはずなのだ。ヌワンワンという言葉を知っているだろうか? 僕はかつてこの言葉を知らなかった。それは僕にとって無意味だった。僕は調理用語辞典でその言葉を見かけ、そして意味が分からない! と思った。無意味を見つけたと思った。しかしなんということであろう用語の意味はきちんとあたりまえに簡便・かつ丁寧に書いてあった。そして僕は知的好奇心のままにそれを読んでしまった。僕にとってもうヌワンワンは無意味ではなくなってしまった。僕はこの世界から無意味をひとつ喪失した。無意味の喪失自体に価値があったかどうか、それは今の僕にはまだわからない。調理用語辞典から無意味を調達するのは僕には無理だと思った。僕はつい意味を求める。しかしもう一度チャンスを与えよう。一度であきらめてしまっては、あまりにも調理用語辞典が無価値すぎる。僕は再びページをめくる。今度は注意深く。オレンジの薄暗い照明の下で。意味を取得しないように無意味をさがす。そして見つけた。今度こそ無意味な言葉をみつけた。コンコンブル・ファルシ。なんだ。なんだコンコンブル・ファルシって。すごくいい。まったく意味がわからない。胸が高鳴ってきた。コンコンブル・ファルシの意味がすごく見たくなった。僕はあまり我慢をしないたちなので意味を見てしまった。コンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーと書いてある。ますます余計に意味がわからないけれど、うすいもやの向こうになんとなく意味の形が見えるか見えないかくらいの感じにはなってしまった。だってキューカンバーはキュウリだということを僕は知っているから。そしてそのキューカンバーはスタッフされているということが言葉から推測されてしまったから。まだかろうじてコンコンブル・ファルシは無意味を保ってはいるが、それはレベルの低い無意味になってしまっている。でも僕はなんとか無意味を手に入れたといっていいだろう。僕はこれからコンコンブル・ファルシという自分にとって無意味な言葉について書こうと思う。無意味な言葉について書くとき、僕から生まれるのは無意味だと考えたからだ。そして生まれ出でた無意味が僕にとって面白いと思われるのならこの文章はすなわち無意味・かつ面白い文章だったということになる。すくなくとも僕にとっては。まずは僕とコンコンブル・ファルシの関係について書きたい。僕とコンコンブル・ファルシは無関係だ。僕はコンコンブル・ファルシを見たことがない。そして聞いたこともない。お父さんもお母さんも学校の先生も、今まで読んできた本も見てきたインターネットも僕にコンコンブル・ファルシを教えてくれたことは一度もない。コンコンブル・ファルシを僕は好きでも嫌いでもない。そして僕はこれからもコンコンブル・ファルシを好きになったり嫌いになったりもしないだろう。つまるところ先ほどから主張している通り僕とコンコンブル・ファルシは無関係だった。コンコンブル・ファルシが僕の目の前に現れたら僕はそれをコンコンブル・ファルシだと認識することはないだろう。何しろ僕はコンコンブル・ファルシという言葉を知ってはいても、コンコンブル・ファルシがどんな形で、どんな音で、どんなにおいで、どんな触り心地かを知らないからだ。ただとてもうっすらとした概念だけがあり、それ以外は僕はコンコンブル・ファルシのどんな意味も持ってはいない。だから僕はコンコンブル・ファルシを信じてはいない。そして疑ってもいない。コンコンブル・ファルシを狙ってもいない。またコンコンブル・ファルシに狙われてもいない。僕はコンコンブル・ファルシに関するテストを受けたことがない。そしてコンコンブル・ファルシに関するテストが0点でも特に困ったことにはならない。僕はコンコンブル・ファルシを助手席に乗せてドライブをしない。またコンコンブル・ファルシと南の島にも行ったりしない。コンコンブル・ファルシは猫に似ていない。そしてコンコンブル・ファルシは僕があたためたばかりのピザをあやまって床に落としてしまっても声を荒げたりしない。コンコンブル・ファルシは夏の終わりに寂しい鳴き声を上げない。またコンコンブル・ファルシは雪が降るとはしゃいで庭を駆けまわったりもしないだろう。僕はコンコンブル・ファルシと初めてあったら、きちんと挨拶をすることができるだろうか? 僕はコンコンブル・ファルシが自己紹介を始めた時、コンコンブル・ファルシの名前をこの耳ではじめて聞いた時、その時こそ僕は意味以上の価値を見出す可能性がわずかにある。僕はこれがコンコンブル・ファルシなのだ! と気が付くだろう。そして次の刹那スタッフドキューカンバーに思いを馳せているかもしれない。僕はコンコンブル・ファルシを通してスタッフドキューカンバーを知る。そしてスタッフドキューカンバーとコンコンブル・ファルシが僕の中ではっきりと分かちがたく結びついたとき、僕はコンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーに意味を見出し、そしてコンコンブル・ファルシ=スタッフドキューカンバーを面白く書けなくなる。僕はコンコンブル・ファルシの歌声に合わせて手拍子をしない。けれどコンコンブル・ファルシは、冬の間は三本ある首の一本だけを左の脇の下に突っ込んで温めているのかもしれない。そして僕は、僕の知らないコンコンブル・ファルシのことを、何も知らないくせに、もう好きになり始めている。
 だからこの文章はおしまいなのである。