心配性
傘をたたんで、バスに乗った。
乗客は三人だった。右後方のひとり席に老人。最後部の五人掛けの席に小学生とおぼしき女の子が二人。
僕は、床がタイヤの形に盛り上がっているひとり用の席に座った。
ポケットから携帯を出して、森見さんのエッセイを読みかける。
と、後ろの席から騒がしい声だ。
女の子がおしゃべりをしている。
「ああ気持ちわるい」どちらかが言った。「バス無理」
窓に雨滴がついて流れる。灰色の光を浴びて、外の世界は滲んで見える。
車内には湿った空気が満ちていて、息苦しく感じた。
僕も子供の頃は、乗り物酔いになったことがあった。
一番ひどかったのは親戚のおじさんの漁船に乗せてもらった時だ。
船のへりにつかまって青黒くうねる海面に吐いた。
鞄の中にビニール製のショップバッグがあったはずだ、と思いついたあと、自分はそれをどうするつもりなのかと自問する。
知らない男の人にエチケット袋を手渡される女の子の気持ち? ありがとうなのか、気持ち悪いなのか、僕には想像もつかない。人間のゲロなんて見慣れているけれど、見られ慣れていない人にとっては恥ずかしいものでもある。しかし、バスのシートに汚物をまき散らしてしまうほうが傷つくんではないのか。
5秒でそこまで考える。そして深呼吸をする。
女の子は冗談を言っているだけで、実際には吐いたりはしない。
僕がただ心配性なだけだ。これは、杞憂なのだ。だいたい誰も傷つかないし、たいがいみんな大丈夫。
森見さんのエッセイに再び集中しかけた時、
「ほんとにダメなんだけど、だってあたし毎回吐くんだもん」
僕は陽気なアメリカ人だったらよかったなあ! と思う。
『ヘイガール! この上等なエチケット袋にファッキンゲロをぶちまけな。俺も昔はよく吐いたよ。バドワイザーを飲みすぎてね! ハッハー! 良いことをひとつ教えてあげるよ。飲みすぎると人は死ぬけど、乗り物酔いで死んだやつはいない。いつか君もバスに慣れるよ。じゃあ俺はジョンとアメフト見に行くからさ、グッド・バイ!』
そういうことを英語でまくしたてて、降りるはずじゃなかったバス停で、さっさと降りてしまうのだ。
そんなことを考えているうちに、乗客はどんどん増え、女の子達の声も聞こえなくなった。
とあるバス停で二人は無事に降りる。
やはり杞憂だったのだ。
僕は気にしすぎる。無駄な心配のせいで、ぐったり疲れてしまう。
もう周りで何があっても気にしないようにしようと思う。
森見さんのエッセイに目を向けると、僕の席の近くに立ったカップルの女性の方が、ぼそりと呟いた。
「あたし絶対糖尿病になると思う」
まったく本が頭に入ってこない。
僕は陽気な医者だったらよかったなあ! とも思うし、女性にひとつ良いことを教えてあげたい気もする。
『それは杞憂ってやつだよ。だいたい物事はうまくいくものだから、心配しなくていいんだよ』