五日間

 在宅で、かつ夜勤という不思議な状態が起きる。
 いまだ経験をしたことがない業務だったので密かに緊張している。僕はいつも大体緊張しており、その状態を緩和、あるいは解消することが大きなテーマになっていた。今のところ最も効果があるのは一度死ぬこと、そして何もかも辞めて大丈夫なのだと再認識すること、僕という存在が消えても僕が大事に思う存在にはなんら影響を与えないのだと考えることだった。自分自身が無価値であることを信じることによって僕は僕を緊張させるあらゆる出来事の責任のレベルを下げようとする、要するに気休めが得意になろうとしてきた。でなければ巨人のような自我に簡単に踏み潰されてしまった。よって僕は気休めという言葉が好きだし、気休めという言葉についてしっかりと考え、準備し、想定し、実行してきている。だからこそ在宅で、かつ夜勤という状態のとき、やはり以前と同じようにYoutubeで動画を流しながらの作業となった。見ていた動画はスケボーの動画だ。僕はスケートボードビデオを見ているとき凄く想像的な気分になって、心が落ち着く。時には笑う。そして時には旅をしているような気持ちになる。スケートボードビデオはシナリオのないロードームービーみたいなものだ。そこでスケーターたちは日ごろ鍛えた技に物を言わせて様々なトリックを決める。かっこいい姿で決める。決めると仲間たちは両手を上げてうわーいとやる。うわーいとやるのは、技を決めた人を称賛したいからそうする。なぜ称賛するのかというと、ちょっとやそっとではできない技をやるからだし、技は一回や二回では決められない、とても難しいものだからだ。スケボーをやったことがある人ならだれでも知っていることだと思うけれど、スケボーは必ず転ぶ競技だ。誰でも必ず絶対に転ぶ。どんなプロだって転ぶし、骨折するし、服が破れて血が出る。みんな絶対に転ぶと分かっているから、転ぶことは悔しいことではあるかもしれないけれど、恥ずかしいことではない。転ぶことが恥ずかしいことではないと教えてくれるスポーツが僕は大好きだ。どんな人間もまず最初に正しい転び方から始めるべきなのだ。スキーを習うときと同じだ。転び方を知っている人間は、きちんと立ち上がることができる。
 夜勤は問題無く終わり、業務終了と同時に自分のベッドに横になることができた。いつもなら会議室の椅子を並べて寝るか、テーブルの上に寝るか、とにかく体が軋む寝床で寝苦しい夜を明かしていたのに、その日、僕は自分のやわらかなベッドに寝ている。その時僕はハハと笑ってしまった。部屋を暗くして社内用の連絡ツールの音量だけは最大にした状態でハハ、なんだこれは、と笑ってしまったのだ。なんて快適なんだろう、ベッドは、今まで知らなかったのだ僕は、ベッドの本当の姿を。あと何回変身を残しているのだろう。未知の寝床で寝れば寝るほど僕のベッドはやわらかくなる。川底の石が丸くなるように。

「ごん、おまえだったのか」
 兵十の放った弾丸はごんと僕の心臓を貫いた。僕は「ううっ!」とうめいてkindle端末を布団の上に放り出し、枕に顔をうずめて苦しむ。やり場のない悲しみが大海のように満ちて息が苦しい。ちくしょう、文学のやろうめ、と僕は思う。回復するまでに二時間はかかってしまうぞ。有名過ぎる文学を10ページくらいのマンガで読む、という感じのタイトルの本が、kindle端末から無料で読めることに気づいたので読んでいたらごんぎつねによる会心の一撃でなさけない僕が死んでしまう。僕は映画でもアニメでも小説でも、好きな物語、とても面白いと思った作品に触れている時呼吸困難になって酸欠になるという持病みたいなものがあり、どうしてそうなるのかこの間本気で考えてみた結果、たぶん単純に息を止めているんだと結論した。無意識のうちに呼吸を止めているか、あるいは通常時に比べて格段に量が減っているかだと思うのだけれど、これが感動系の話だと泣いてしまうという症状が加わるので、息が苦しい上に泣くことになり、するともうとてつもなく肉体的に苦しくなり、非常に見苦しいことだが、たぶん顔が紫色になって地面をごろごろ転がりながら泣きながら本を読んでいる人という、すごく変な人になっている気がして想像したらすごい面白かったので今度ビデオに撮ってみようかなと思った。ごんぎつねショックから脱するためにリンゴジュースを一杯飲んで風呂に入ることにした。浴槽に半分お湯を張ってkindle端末を持ってあつい湯につかりながらドラえもんを読んだ。小学二年生向けに描かれたドラえもんを集めたアンソロジーで、懐かしい気持ちでいっぱいになる。小学生の頃は本当に何度もドラえもんを読んだ。今読んでみると、親が子に与えるマンガとしてドラえもんは本当に最適だ。お父さんとお母さんはよく心得ていたと思う。ドラえもんはとても簡単な線ですべてを余すところなく表現しているね。のび太君のだらしなさ、のび太君の弱さ、のび太君の残酷さ、のび太君のドラえもんに対する深い愛。しずかちゃんはあんまり人間として描かれることがないような気がした。それはまるでアイコンのようだ。ジャイアンスネ夫は人間丸出しで愛らしい。そしてドラえもんドラえもんについて何を考えればいいのか僕にはわからない。ドラえもんは特別に頼りになるわけでもないし、いつも正しいわけでもない。だからこそ友達なのだな。ペットが欲しいのび太君が、竜巻を飼う話があるのだけど、竜巻をペットにしようという発想があまりにも異質ですばらしかった。竜巻は最後に、のび太を守るためにより大きな台風にぶつかっていく。そして消えてしまう。僕は息が出来なくなった。読むのを止めるためにkindle端末を浴室の外に出そうと立ち上がった時、目の前が真っ暗になってぶざまに床に膝をついて猛烈な眩暈の中でドアノブにすがりつきkindle端末を外に放り出して冷たいシャワーを浴びながらこのまま読書を続けていたらいつかどこかで読みながら死ぬだろうと思う。僕を殺すためには想像の弾丸が一発あればいい。

 ジェネレーションキルというイラク戦争のドラマ全七話をスーパーカップを食べながら一気に全部見る。面白いドラマだった。重いドラマでもあった。戦争が起きたら、その時僕に何が起きるのか、そういうことが気になるんだと思う。人間は何をするのか。どう考えるのか。ベトナム戦争の映画も、第二次世界大戦の映画も、あんまり変わらない気がして、組織と人、社会と個人、生きることと死ぬこと、正しさってなんだろう、生きている僕はどう生きるのがいいんだろうということをもくもく考える。考えすぎて気分が暗くなってきたのでカーテンを開けると久しぶりに晴れていた。マスクをしてスタンスミスを履いて外に出る。こういう自由も戦争中にはあり得ないことなのだろう。蛍はどうして死んでしまうのだろう。僕は飽食の時代にスーパーカップを食べて、幸福とは一体。コンビニでモンスターエナジーを買って、並木道を歩いていると、人工の池でザリガニ釣りをしている親子がいた。女の子は柄物のワンピースを着て、お父さんは半ズボンにTシャツだ。もうすっかり夏なのだ。二人とも木の枝にタコ糸かなんかをつけて岩に足をかけて糸を垂らしている。そこへ餌をくれることを期待したハトが寄ってきて実に平和そのものだった。結局のところ自分ができることを精一杯やるしかなかった。やりたいことをやれるだけの時間と自由とそれなりの健康があるんだから暗い顔していることだけが悪なのではないか。よしゲームを買おうと決めてブックオフでゲームを買った。ゲームを買うのは半年ぶりくらいだ。家に帰って10時間ほど続けてゲームをしていたら目が充血してちくちく痛んできた。眼がうまく開けられなくなった。この感覚も久しぶりだった。眼が痛くなるまで何かに没頭することが。ゲームの中では僕はハッカーだった。ゲームの中では僕は勇者だった。ゲームの中では僕はガンマンだった。あるいは兵士だった。ゲームの中で僕は高校生だった。映画の中では。あるいは小説の中では。そして現実では僕は僕だった。そうか、僕は僕なのか、緊急事態宣言が終わったら海の見える町に行こうと思った。人のいない海がいい。観光地化されていないよそよそしい海がいい。岩場で三ツ矢サイダーを飲もう。それから一パック500円の焼きイカもふんだんに食べる。レンタルした原付で長くまっすぐ伸びる田舎のバイパスをずっと走る。星空の距離が近いはずだ。旅館に戻ったら温泉に浸かって、上がったらスイカバーを食べる。持ってきた本に飽きたのでテレビをつけると、夜のロードショーが終わりかけている。大きな川の土手の斜面に男と女が立っていて、二人の間には白いうさぎが座っている。うさぎの首には細い首輪がついていて、リードは女が握っている。二人はじっと動かないうさぎを見つめて立ち尽くしているのだけれど、その様子はなんだか結構しあわせそうだった。晴れていたし、冷凍庫の中にはまだ、アイスがひとつ残っているはずだ。

 

今週のお題「遠くへ行きたい」