マスクと鶴

 彼は人間ではなかったんだね。マスクを脱ぐまでは。

 姉は肩にインコを乗せてアイスコーヒーを飲みながら僕の前に座っている。
「昔ねすっごい好きなキャラクターがいてね」と彼女は言う。
「かっこいいと思って、グッズとか集めて、セリフとかもすごい良いのよ。それでだんだん声優も好きになって。ある日ネットで声優さんについて調べたのね」と彼女は言う。
「そしたら写真があってさ、声優がただのおっさんだったの! キャラに似てるわけでもない、ちっちゃいおっさんだったの! もう、めちゃめちゃショック受けてさ、それ以来わたしは絶対に声優の顔を検索しないことにしてる。ぜっったいに検索しない」
 僕は「ふーん」と答えてうなずいた。
 彼女の気持ちは、理解できる。共感もできる。
 でも、その気持ちに対して適切な言葉を返すことはできそうになかった。

 キャラクターは好きだけど、中身は好きじゃない。という現象を、どう受け止めたらいいんだろう?
 たとえばキグルミが歩いているとして、キグルミはかわいらしく(愛嬌があって)、キグルミは害のなさそうな顔で手を振ったりしてくれる。
 キグルミはそういうキャラクターだから、そういうことをするわけだけど、中に入っているのは人間だ。
 分別のある大人ならば、誰しもキグルミの中に人間が入っていることを知っているし、中の人間がキグルミのようなキャラクターではないことも、またキャラクターのような外見をしているわけでもないことを知っているはずだ。
 だから多分、キグルミから人間が出てくるところを見ても、(普通は見せない姿だから)驚くことはあっても、がっかりはしないと思う。
 それはおそらく、姉もそうだと思う。姉はキグルミの中の人を見ても「ぜんぜんキャラクターと違う」とは言いださないはずだ。
 しかし声優となると、これは違う反応になる。
 何故だろう。

 マスクというものは、与えられた役割を表しているもので、マスクを好きになるということは、役割そのものを好きになるということなのだろうと考えた。
 ネイティブアメリカンの化粧や、能面や、セーラー服、金色のバッチ、ボクシンググローブ、などのマスクは役割を表していて、役割には固有の性質や性格、ライフスタイル、雰囲気やイメージが、観察者によって勝手に付与される。警察官は悪いことをしないよね、みたいな固定観念が出来ている。実際には警察官は悪いことをするしアイドルも牛丼の特盛を食べるだろうし、ぬいぐるみが好きな漁師だっているだろうし、かっこいいキャラクターの中にちっちゃいおっさんが入っていることもある。
 マスクが役割としてきちんと機能を果たしている時、マスク者は人間ではなく、コンテンツや部品や機械のようなものとして考えられている。のではないか。
 逆に考えると、マスクは人間以外になるための道具なのかもしれない。
 人間以上とは言わないまでも。

 人間には人間以外の役割が必要だったのかもなあと僕は思う。
 むしろそれを期待していたというのならば、中身を確認することで、人間以外が人間そのもののレベルにまで堕ちたことにショックを受けるのは感覚的に理解できた。マスクに対する感情が好意なら余計に、だまされたと思うかもしれない。マスクをすることで、人間は人間以外になれることを知っているから、虎の威を借る狐のように、自分を特別にすることができるから、それは偽りの姿だから、マスクの中身こそが真実の姿だと思ってしまうから。
 そして正体は、隠さなければならないくらい酷いものだという先入観が、人間そのものを貶めているような気もする。
 昔話の『鶴の恩返し』などは、マスク物語としては良い例ではないかと思うのだけれど、じいじに助けられた鶴が人間に変身して恩返しに来る。部屋に閉じこもって鶴人間はきれいな布を織るのだけれども、その間は絶対に部屋の戸を開けてはいけません、覗いたらダメですとお願いをする。じいじは人間だから、鶴人間がどうしてきれいな布を持ってくるのか、その正体を知りたくなってつい戸を開けてしまうと、そこには鶴がいて、鶴は姿を見られてしまったから出て行ってしまう。
 ここでは人間から化け物というレベルの降下があって、そのあたりが教訓になっているように思う。
 マスクが機能しなくなった時、もう元には戻れなくなってしまう。

 僕は最近バーチャルについてよく考える。
 バーチャルもマスクの一種で、それは世界ごとマスクをしている感じだ。
 アバターを使ってYoutubeで配信を行う人たちをバーチャルユーチューバーというけれど、彼・彼女たちもまた人間で、このあいだ何気なくTwitterを見ていたら、バーチャルユーチューバーの中身がわかったという人がいて、検索してみると、人間の動画が出てきた。
 バーチャルのマスクなんかつけていない、生々しい人間がそこにいた。
 汚い言葉を使って、生活感のある服を着て、アパートの一室で、そのとき僕は、論理的だった僕は、本当に何も言えなくなって、つまりショックを受けて、ああこれが人間だ、と思った。人間なんだ。しみじみそう思った。人間だったことが嫌だったわけではなく、ただショックを受けた。お父さんとお母さんがキッスしてるところを見てしまったみたいな、もうそれは、理屈を超越してただショックなものなんだと思う。何故そうなってしまうのかはわからないけれども、結局は自分の視点からは逃げられないということなのかもしれないな。
 読者諸賢らにショックを与えなくないので、言っておきたいのだけれど、僕の中身は大きめの牛です。
 モー。