こわれかけのペン

 たしか二千円くらいだったと思う。
 出社したばかりで、休憩室に向かった。手提げカバンをテーブルに置いて内側のペンホルダーから抜いて手に持った。
 そこまではたしかにはっきりと覚えている。でも次の記憶となるともう怪しい。
「るるる」と作業部屋の電話が鳴ったのだ。それで僕は一度テーブルに置いた? それとも持ったまま電話まで走っただろうか?
 たぶん置いたのだ。テーブルの上に放り投げるようにして置いたはずだ。おそらくそれは勢い余って吹っ飛んだ。
 からからと転がっていく音が聞こえた気がする。休憩室は100匹の蝉と100匹の蛙と10人の赤ん坊とが一斉に泣き喚いた時みたいに騒々しいから、僕が望むままに音の幻覚を捉えただけかもしれない。電話に気を取られていたから、自分の目で転がっていくところを見たわけでもない。
 とにかく僕は走って電話機に向かい受話器を取って「もしもし」と言ったはずだ。「ご用件をどうぞ」
 受話器を置いて休憩室に戻る。手提げカバンを手に持って作業部屋に引き返そうとする。そこで僕は何か忘れていることに気がついて足を止める。回れ右をしてテーブルの上を見やる。けれどテーブルの上にはどんなものも置かれてはいない。
 きれいなものだ。

 気に入っていたかと聞かれたら「別にそうでもないけれど」と答える。貴重品でもないのだし、買おうと思えばいつだって買える量産品だ。近所の本屋さんで買ったのだ。透明なプラスチックのケースに入ったペンが壁にたくさんかかっていて、そういう光景は見たことあると思う。その中の一本だ。メタリックな銀色で、表面はつるつるしていた。ノックする部分が金属のピンのようになっていて、その部品は買って1ヵ月で壊れたから、なんだかずいぶんみすぼらしかったんだ。それでもまだ使えるので替え芯を何本も買って、もう二年くらい使っていただろうか。ペン先に近い、手がいつも触れる部分は磨き抜かれて貧乏くさい光沢が出ていた。「ししみさん、いいペンを使っているねえ」と何度か人に言われたことがある。そのたびに僕は「でもほら、ここを御覧なさい、壊れているんですよ」と言ってノックする部分を見せなければならなかった。すると相手は複雑な表情をして閉口する。ぼくも同じような顔になって閉口する。褒められるほどのものではないし、褒めるようなものでもない。とにかくへんてこなやつだったのだ。
 気に入っていたわけでもないし、愛着があったのかと言われるとやはりそうでもないと思う。むしろ早く新しいペンが欲しいなあと思っていたくらいだ。何度か積極的に捨てようとさえ考えたと思う。だから僕は壊れかけの銀色のペンがどっかにいなくなった時に感じた感情がなんなのかまったく理解できない。

 中腰になってテーブルの下を探す。一秒で何もないのが分かる。
 這いつくばって棚の下をのぞき込む。ほこりが集まってほこりボールができていた。
 棚の上に置いたのかもしれない。棚の上を見て回るけれど影も形もない。
 同僚に「銀色のペンを見かけませんでしたか」と聞くと、彼は怪訝な顔で首を横に振った。
 鞄から出して、またしまったのかもしれない。鞄の中身をひっくり返したけれど友人にもらった知恵の輪が転がり出てきただけだった。
 無いのだ。無くなったのだ。休憩室も作業部屋もそれほど広いわけではないのに、もう最初からなかったみたいに消えてしまった。
 次元の狭間に吸い込まれたとしか考えられない。あるいは僕の記憶が操作されたのか。あのペンは何かのイデアでこの事件はメタファーなのか。それともペンは今もテーブルの上にあって、でも僕には認識できなくなっただけかもしれない。

 仕事が終わった僕は、近所の本屋に向かった。
 プラスチックのケースに入れられたペンが壁にたくさんかかっている。
 その中の一本を手に取る。なくしたペンとまったく同じものだ。色も形も機能も値段も。
 家に帰ってケースからペンを出す。銀色に光っている。ピンの部品はぴかぴかしていて、手が触れる部分はなめらかだ。
 なるほど新品できれいだ。いいペンだねと言われたら、僕は「そうでしょう!」と言えるだろう。
 でも、なんだろうか、でも、と僕はなんだか、言い訳したい気分なのだ。