在宅

 在宅業務が本格的に始まって、ベッドの上から仕事が始まってしまう真面目さが、おそらく今後負担になると思われたので早めに手を打とうと考え、「おはようございます」と上司にメッセージを打った後、ベッドに転がって小説を読み始める。
 会社で仕事をすることは普通で、職場で仕事をする時はスーツを着て、オフィスカジュアルみたいな服を着て、お客様に見られても恥ずかしくない格好で仕事をするのが普通で、だから在宅で仕事をする時にも、片時もパソコンの前から離れない姿勢、つまり真面目さを誰に見せるともなく発揮することが普通だと、ついこの間まで無意識的に思い込んでいたことが、僕はとても馬鹿らしいと思って、在宅勤務は在宅勤務であって、本社勤務ではないのだから、これは区別をしてもいいんじゃないのか、在宅のメリットというものがあると仮定してね、そのメリットをどうして無視する必要があるのか、それは本当に「自分が選んで手にいれた真面目」なのですか、ただ周囲に流されていただけでは? 無意識のうちに同調圧力に操作されていただけでは? モラルや社会が要請する社会人の姿勢態度服装は、僕が勝手に想像して作り上げた檻で、僕が勝手に閉じ込められていただけでは? 自分の意志で選択することができるとき、意思を放棄するなら僕は、放棄した瞬間からずっと何もかもを、自分とは無関係のものとして認識することになるのではないか? そのとき笑って死ねますか? 生きていますか?
 はい、生きています。ベッドの上でローリングリーディングすることを選択した僕は、真面目さとはベクトルの違う小心者ぶりを発揮して、ネットワークで会社とつながっているノートブックPCをちらちらと確認しつつ、やがて物語世界へと没入してゆくのではあるが、窓ガラスを透過する夏めいた光の描く波紋が、シーツの上をゆうらり揺らしているのを見て、何度でも小学五年の夏休みを思い出してしまい、意識は実に容易にタイムスリップする。そのとき僕は変な背の高いベッドを使っていて、立ち上がった僕の首くらいの位置に寝るところがあるという、その背高ベッドの上で、蒸し暑い部屋で、やはり延々と本を読んでいた。朝から晩まで、家には人がいなかったので誰とも話すことなく、まったく静けさの満ちた田舎のあの狭い部屋で、なんて僕の人生は面白くないんだと思いながら本を読んでいた、あの時の自分がまだ心の表層に近い所に居て、何度もアクセスすることによって、どんなきっかけからでも思い出が浮上するようになってしまっている。そういうのを原風景とかいうのだろう。あの狭い部屋でひとり、窓の外を眺めて過ごしたこと、誰とも話さず本を読み続けたことは、どんな素敵なエピソードも含んではいないのに、とても大事な、意思の中心に近いところにある記憶だ。
 いつの間にか眠っていて、仕事が本格化する時間にセットしたアラームに起こされた時、やはり何か特別な出来事があったわけでもなく、何か素敵で思い出に残るような事件があったわけでもないのに、まったく唐突に脳裏が幸福だ。最近よくこういうことが起きる。子供の頃には一度も起きなかった現象で、正体も由来も不明だけれど、たしかにじんわりと幸福で、もしかしたらどこかのタイミングで脳がバグってしまったのかもしれないけれど、もしかしたら、もしかしたら僕以外の人間は、もっと前から時々はこんな風な、静的な幸福感みたいなものを、たびたび感じているんじゃないか? だからあの人はあんなに不安が無さそうなのではないか、だからあの人は、だとすれば脳がバグったのではなく脳が今、治ったんだ――と思い当たる節をつらつらと挙げつつ仕事をして、モニタに顔を近づけて眉根を少し寄せている時、あっこれは僕の檻の中にいるな、と気づいてすぐにYoutubeで子犬の動画を流した。子犬がえさを食べているのだが、どうしても隣の子犬の餌入れから食べたいらしく、奪ってしまう動画だ。そういうのを見ていると、宇宙とか、子犬とか、あとは広い海とか、そういうものに比べたら、僕の成功、失敗、栄光、挫折、孤独、幸福、そんなものが一体なんだというのか、子犬のかわいらしさと比べたら、なんて意味のない現象なんだろうって、子犬はもう宇宙じゃん。つまらない大人の幸福と、それとはまったく無関係の子犬の動画の、ちょうど中央くらいの普通で、オープンワールドRPGみたいな在宅を自分らしくクリアしたり失敗したりして、ぼくたちの冒険はまだ始まったばかりだ。