その日、髭のリーダーは群青のTシャツを着ていて綿の短パンを履いている。
 陽に焼けた筋肉質の黒い腕は半袖を境にして海豚の赤ん坊のような生白い肌をのぞかせていた。
 リーダーはメタルフレームの四角い眼鏡をテーブルの上に置き瞼を指で押さえつけて人間には聞き取ることのできない小さな声で恐らく悪態をついた。それからぐりぐりもみほぐした。瞼を。そして眼鏡をかけた。眼鏡の奥の瞳はまぶしい光を見た時のように細められていた。左手のGショックを見て、テーブルの上に飛び乗ると淵に座り足をぶらぶらさせた。少年のように。
 腰の袋にぶら下げていた鋏を抜いて人差し指でくるくる回した。西部劇のガンマンがやるようなやつだ。くるくる回したあと袋に戻した。リーダーは窓にかかっている布の隙間から差す明るい陽の光にちらりと目をやった。布と布の隙間を頑張ってみつめていれば大事なものがしっかりと見えるんだ。とでも言うかのように真剣に見た。けれど目はすぐにそらされた。真実とか思い出とか光とかそういうものは直視するのがとても難しいんだ。と僕が予測を立てた。その時カーテンの隙間の向こうにはたぶんとても大事な光景があったはずだった。たとえばリーダーがはじめて人を好きになって人を好きになるって一体どういうことなのだろう、と彼が組み込まれている文脈外の侵入思考が人生を犯し始めた時の放課後の教室でひとりノートに落書きをしている姿が、やはり教室のカーテンの隙間からのぞきこむようなアングルで。
「家に帰ってもいいよ」と彼は言う。「昼頃にもう一回来てよ。仕事はないかもしれないけど」
 僕は肩をぐるぐる回して「わかりました」と言う。
 M子さんは「うーん」と言う。そのあと「えー」と言う。髪先を指ですこしつまむ。つまんだ後に離した髪先はたんぽぽのぎざぎざの葉っぱが風に揺れるのとまったく同様の揺れ方をしてすぐに重力に対して垂直の姿勢に安定する。M子さんは何事もなければロッカールームの入り口の近くの床に座り込んで携帯をいじり続けるはずだった。彼女の姿は路傍の石像のように誰にも顧みられることがなく、また通りすがりの中年女性達にしてもどうして地べたに座り込むのかを問わないことがある種のマナーであるかのような暗黙の了解とでも言うべき信頼関係が自然に構築されていた。触れ合わないことによって共存する形ができることもあるのだ、それは海豚とたんぽぽに面識がないことによく似ている。と僕が予測を立てる。M子さんはぴっちりしたジーンズの尻ポケットから携帯を出して布切れの詰まった棚の奥に移動をはじめる。
 達夫さんは笑顔を浮かべて俯いた。達夫さんは工場の片隅にあるエンジンの影に座り込んで時が経つのを待つに違いないと思う。達夫さんの隣には達夫さんの恋人が座っていて、そこで二人は静かに何かを語り合っている。その二人の姿は珍しい美しい獣のつがいみたいで目にするたびにいつもぎょっとする。よっつのきらきらした感情のない瞳が観察者を静かに見つめ返すので。

 だから、実際に家に帰るのは、いつも僕だけだった。
 作業場を出て右に曲がると狭い男性用ロッカールームがある。
 男性用ロッカールームには頭のおかしなUがいる。Uはロッカーとロッカーの隙間に体を押し込め、ロッカーに擬態した姿でにたにたと奇妙にわらいながら携帯をいじっている。なぜそこにいるのか、どうして出てこないのか、誰もしらない。頭がおかしいからだろうとみんな思っていて、だから変な行動を赦されていて、頭がおかしいことを気にする人はひとりもいないし、頭がおかしくない人もきっと一人もいなかったのではないか、と僕が予測を立てる。
 ロッカーを開けてペットボトルを取ると、Uは「くしゅくしゅくしゅ」と言う。Uにしか理解できない言葉で。
 玄関には無数の靴が並んでいる。二重三重になってあらゆる靴が並んでいる。この靴はバスに乗って運ばれてくる。アスファルトを踏みつける。そして帰宅する。ジャスコに向かう。
 自分の靴を探し出す。
 工場を出ると日差しが肌に刺さる。髪に熱がこもる。空はとても晴れている。
 車の鍵を開けドアをひらくと密度の高い熱気が体にまとわりついた。
 窓をあけてエンジンをかけて砂利の駐車場を徐行して出口に向かうと、遠くにうっすらと海が見えた。海は白く発光していて目が痛い。
 狭い国道の脇にはくすんだプレハブが建っていて、かき氷と書かれたのぼりが立っている。でも室内に人がいる気配はない。
 潰れた小学校の車回しには警察が網を張って待っている。
 地下水が噴きだしているパイプに白い頭巾をつけた老婆が近寄っていく。手には金盥を持っている。
 橋を越えて土手を左に曲がる。川は海に流れ込んで無数の獰猛な棘のようなきらめきを返している。
 青い屋根の家の前に車を停めて降りる。
 短い坂を下りて玄関の戸を開ける。引き戸は滑りが悪くがりがりと嫌な音を立てる。
 キッチンの冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ。
 コップを手にして部屋の戸を開ける。
 窓を開けると無数の鶏がころころころころと言っている。
 野草と痛んだ池の腐敗したにおいがほのかに漂っていた。
 部屋と同じ温度になったストラトキャスターのネックをつかんでストラップを肩にかける。
 アンプの電源を入れると耳障りなノイズがじいじい鳴っている。
 適当なパワーコードを押さえてストロークするとぎゃぎゃーんとなる。
 ぎゃぎゃーんぎぴぴーんぞぞんぞぞんぎゃぎゃーんぎぴぴーんぴぞぞんぞぞんぞばりばりばりエレキギターの音はビルが倒壊するような地面がひび割れるような音で閉塞感や虚無感や鬱屈や繰り返される退屈を死ぬまで続けなくてはいけないのだろうかと考えていた僕にはとても大事な楽器だった。うつくしいきれいなものは全部偽物できたなくてみにくいものがとてもリアルに感じられたのは危険を認知する脳の機能はそれを楽しさやうれしさよりも生命を守る立場から重視するからだったんだろう何かが壊れたような音とかが安心したのは壊れたものはもう壊れないから安心だからだったのかもしれないな。その時まだ豆大福は好きじゃなかなったしかわいい動物のぬいぐるみにも興味がなかった。
 お昼ごろに会社に帰る途中、スピードを出しすぎた僕の車はカーブを曲がりきれずに横転した。
 傷一つ負わなかったので屋根の潰れた車の写真を携帯で撮った。
 山の中で携帯の電波がまるでなかったため、動かなくなった車のまわりをいつまでも所在なくうろうろして、誰かが通りかかるのをひたすらに待った。
 そこに通りがかったのが小学生のころ僕が好きだったSさんだった。
 Sさんはなんとなくいつも眠そうな目をしている人で、潰れた車を見て僕をふもとまで乗せてあげると言ってくれた。
 ハンドルを握りながらSさんは「結婚することになった」と言った。
「えっ!? おめでとう!」と僕は言った。「お嫁さんじゃん!!」

 

 

今週のお題「卒業」