Yomoyama

箱庭フランケン

 壊れたパソコンを修理して使っている。
 壊れる前にパソコンで使用していたデータは、摘出後に外部記憶装置へ移動させたから、修理後のパソコンはおどろきの白さで、デスクトップ画面にはアイコンが三つしかないことにはモンゴルの草原みたいな自由があった。新しいパソコンを買った時ってこういう気持ちだったかもしれない、と新しくもないパソコンで思うのはなんだかわらっちゃう。
 壊れているものはもう壊せないからという動機で修理ができるようになって、それが成功した時にどう扱うべきかなんて当然、修理計画には一文字も含まれていない。滑稽にもその事実が本質的に場面で動いてきた僕にぴったりの表現だった。持て余してしまったわけだけれど、少し手をかければ現在の環境をよりよくすることができる性質を死蔵しておくことが苦手なので、積極的に使って壊れることが好きだし、おそらく道具もそれを期待していると考えているので(博物館に飾られるより使ってもらったほうがよい)、技術的な関心を少し加えて、経験および利便性の向上を主目的として再び改造を行うこととして、新たな装備をフォートヨドバシにて購う。帰宅後、机の上を真っさらに片し、簡易作業台を用意したのちパーソナルコンの改造作業を行った。

 

 

 

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初期のファン

 まっすぐパソコンの中を撮ると、なんだか都市みたいに見えて、とても好きだなと思う。今回の改造では、右上に映っている黒いプロペラを、もっとパワーアップしたものに付け替えた。付け替えてパワーアップさせるという概念について考えてみると、はるか昔の思い出がよみがえって、ミニ四駆だなあと思ってしまう。それはアーマードコアでもドラクエでも、ファッションでもバイクでもなんでもいいんだけれど、新しいものを装備して何かが少し変わる、強くなる、っていうインスタントだけれど実感できる効果って安心だし、ただの欲望なんだけれど、それはシンプルにおもしろい。

 

 

 

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都市

 

 

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改造後のファン

 大きいプロペラに変えようと思い、本来のスリムなパソコンのサイズでは入りきらないほどの、どでかプロペラを買ってきて、無事に装備させることができた。真上からの写真ではどうなっているのかよくわからないので、横からも撮ってみた。

 

 

 

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ビルみたい

 町の景色がいっぺんに近代化して、グロテスクな異形の塔が生まれた。町の中にある不自然に大きな建物が好きで、遠くに見えているゴミ焼却施設の高い煙突や、巨人の家の玄関みたいな水門や、雲のかかった富士山や、空中に浮かんでいるザレムや、軌道エレベーターや、そういうもののことを考えていると気が遠くなってきて、いくつになってもおどろいたり、おおきいなあと思ったりするし、したい。僕の故郷にもある日突然謎のガラス張りのタワーができたことがあって、長い階段が塔の上まで続いていて上ることができた。1年くらいは大人たちも物珍しそうに上ったりしていたけれど、やがて誰も上らなくなり、子供たちも近寄らなくなった。塔の一番上から見える景色は鄙びた我が町の漁港と、青黒い海ばかりで、特別に見晴らしがよいわけでもなく、塩気の強い風がびょうびょうと吹き付けてきて、ひどく寂しい気持ちになった。そしておそらく僕はそういう無意味に片足を突っ込んで終わった何かもすきだ。

 パソコンはフランケンシュタイン度を増して、より意味のわからないジャンクみたいになって、それでも以前の、買ったばかりの頃よりずっとパワーアップしている感じは人間の肉体を捨てて闇の力を手に入れた人みたいでいい。ある日突然壊れ、五年もほこりを被ったあとなのだから、愛着もひとしおになってくる。また面白いアイデアが生まれたら箱庭に手を入れたい。

 

Yu-rindou

 アキバヨドバシカメラの7階の本屋さんに足を運ぶと、入り口前の話題本展示ブースに小林先生の新しい小説が置いてあり、「あっすてき」と思って近寄ると、ちょうど前を歩いていた眼鏡の女性も足を止めて本のパッケージをじっと見ている。
 内心びっくりしていたのは、小林先生の本を僕以外の人間が読むのかという思いがあったからだし(好きだという人に会ったことがない)、おまえさんも好きなのかいあの超論理的会話が、という想像があったからだけれども、少なくともその人がいる間は隣に近寄って手に取るなどということは邪魔にしているみたいに感じられたら嫌だなと思ったので、すぐ隣の本を見ていたのだけれど、彼女が歩き出したので本を手に取り、次は小説の島の新刊コーナーに向かったらまた同じ彼女が立ち止まって小説本を見ており、今度こそ「うっ」となる。そんな気は毛頭無いにせよ付け回しているようではないか。幸い彼女はすぐに歩き出したので新刊コーナーの手書きポップや作家さん直筆のメッセージなどを眺め、「この作家さんは字が汚くて好感が持てるぞ」などと思いながら漫画の島に向かうと、またまったく同じあの彼女が棚の前に立っていて、その時気が付いた。回遊パターンが同じ人だこれ!
 みんなさんはどうやって本屋さんを見ているのかよくわからないけれど、僕はよく行く本屋だと見て回る棚の順番が自然と決まっていることが多く、それ以外の順番で回るとなんとなく気持ちがよくないということがある。たぶんルーチン化してあるほうが違いに気づきやすいからなのではないかと思う。新刊が出たけれどスペース的に売り出しにくいものが棚に差してあるだけの状態だと、前もって作家の札の位置が頭に入っていたほうが早く見つかる。
 同じ回遊パターンを持つ人がいると、なんの関係も、なんの根拠もないのに話してみたくなる。おじさんでもおこさまでもそれは変わらなくて、そこに意味なんかいらなくてただ一緒でおもしろいねってそういうことが言いたい。
 本を二冊買って本屋を出た。
 今日の天気は晴れで、春みたいな陽気だった。
 あまりに日差しがまぶしいので、裏通りを歩いて帰った。
 鞄の中に読んでない本が二冊。
 それがとてもうれしい。