居場所と再生

 居場所というのは探すものではない作るものだ、とどこかで読んだか聞いたかして甚だ曖昧であるのだが、トニカク居場所は作るものらしく、創作物であるらしいのだが、己が身を振り返ってみて仮住まいでも居場所というものを与えられ、そこに仮初の居場所を作ることは案外得意なことのひとつだ。
 そこにたったひとつ自分のものが置いてあれば、僕はなんとなくそこが僕の居場所のような気がする、延長自我が君の巣だと告げている。たとえばただのシャープペンシルがペン立てに刺さっている、そこに僕のシャープペンシルが、谷川俊太郎さんが詩に書いたように他の何物にも重ならずに存在していることで安心した。座布団などなら更に居場所の重みと面積は広がるだろうし、それは結局のところ究極的に僕が所有している物質がとても儚いものだとしても、精神と紐付いている物が空間を専有することで精神もまたそこに居場所を築いていたから、秘密基地よりもっとミニマルな長さ10センチの居場所こそが物質世界に精神を縛り付ける錨ともなった。ライナスなら毛布だし、逆に月10万円支払ってよい家を借りたとしてもそこに錨を打てないのならあまりにも居場所がない。

 自分の部屋の中でどこに一番長く滞在しているかと考えるとやはりベッドの上が一番だった。次点は机の前だったからか、そこにいるのが考えるまでもなく好きで、唯一無二であった。机の前に座って何かやったり寝たりすることがおそらく一番好きだった。ということが分かってから長い間机の周りを改造してきて、気がつけば物が溢れていた。積読本を20冊積み上げてどでかいパソコンとモニタとキーボードとマウスと外付けHDDと仕事上の書類と新しく買ってきた紙カバー付きの文庫本と携帯と鍵とフリスクフラッシュメモリと知恵の輪とむぎ茶の入ったコップとの集合体で自己のラスボスみたいになっていた。あまりにもたくさんの自分の居場所アンカーがぎっちぎちに空間に突き刺さって認識能力が著しく低下しぼうっとしながらビートルズを聞いたりチベット仏教マントラを聞いたりvtuberを見たりしながらブログを書いたり肩のストレッチをしたり寝たりしていた。それがいつしか重荷になって自分で満たされていた空間に入りきらなくなった自分で溢れた。毛布一枚あればよかったんじゃんと考えてこの間模様替えをした際、机の上を猛烈な勢いでシンプルに改造した。

 

 

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見晴らし

 物質が数を減らし目に見える錨からも解き放たれて見晴らしは上等帆を張って出航とりかじいっぱいフォックス2ブルズアイである。本来ならば物質などは本当にひとつもいらないのかもしれないし、人生は旅だから"貴重品だけ持って段差に気をつけて"でいいのだけれど、僕はまだまだ未熟なねんねの尻の青い果実であった――本当の居場所というものは心にあるものだそれはチルチルとミチルが教えてくれたあの青いメタファーで。
 ここまでが居場所の話で、ここから全く関係のない再生の話になるから(ではどうしてひとつの記事でお話が接続されているのかというと、それは文章ではなく写真で繋がっているから)、インターミッションを自在に挟んで仮想膝の屈伸などをしたのち書き進めるが、僕の家には壊れたパソコンが3個ある。

 壊れたパソコンを人々はどうするのかまったく知らないし聞いたこともないけれど、おそらく正しくはお店にお金を払ってデータをきれいに消去してもらって廃棄したりするのだろうか、リサイクル料金などを支払ってごみやさんに引き取ってもらったりするのだろう、それは想像の範疇を出ないけれど、だからこそ己は今まで不要のパソコンをどうして処理してきたのか全く記憶になく、だから固く冷たい墓標のようにリビングのテレヴィジョンと本棚の暗い隙間で彼らは肩を並べて青い顔をして立ち尽くしていた。
 いつか捨てよう、あるいは治そうと夢のようなことばかり考えていたらもう埃をかぶって彼らは全体的に半透明になっていた。その中の一台は、買ってから2年ほどですぐ壊れてしまったもので、当時でもまあまあのスペックだったので手放すのも悔しくて毎晩泣き暮らしていたし、それは当時書いていたブログにも書いたくらいで、へんな絵やへんな文やへんな音楽や、自由時間の全てを費やして作ってきたものの集大成だったからがっかりしたけれども何年も経って喉元過ぎ熱さを忘れていたんだけれど今日、成長した僕がいて、ふと治せるのではないかと思い、調べながら作業をしていたら、治ったのである。
 パソコンの故障というのは生物の死と同じくらい不可逆的な概念だと思いこんでいた。データは失われハードは爆発し残骸だけが産廃に進化してもう何も生み出さなくなるんだと思いこんでいた。思い込みであった。パソコンは生物ではないから死なないのだった。死んでもフランケンシュタインみたいにして生き返らせることができるのだと分かった。よいパソコンAはBIOSは起動するしwin10がシステム修復をしようとする元気もあるからおそらく壊れているのはOSでハードは全部生きているんだと検討をつけて試しに破裂音がして動作を停止したパソコンBのHDDを接続してみるとやはり途中まで起動はするから今度こそハードに問題があると決めつけてSSDと外付けハードディスクドライブケース(僕はこんなに便利な道具があることすら知らなかった)と大容量のフラッシュメモリをアマゾンで購入し生きているパソコンでwin10をフラッシュメモリにインストール、パソコンAのデータはHDDケースを使ってサルベージしてからパソコンAに相性も調べなかったSSDSATAで繋げてフラッシュメモリを刺したらUXINDOUZUをインストールし始めたので、その時僕は本当にパソコンがただの機械で、しかも結構がさつなやつなんだと知った。こんなの精密機械でもなんでもないんだと思った。ガンダムの右腕にザクⅡの右腕を刺しても動くんだものな。


 

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廃墟



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世紀末

 ガムテープで部品が留めてあるところは男の子はいつの時代も好きではないですか。時限爆弾みたいなサイバーパンクみたいな汚いSFの感じで胸が締め付けられたのでもうブーツのポストカードとか貼ればいいんでしょと思って少しおしゃれにしたらフランケンシュタインのことがだいすきになる。
 きちんと動いて動画も再生できるのを確認してから、不意にサルベージした過去のデータを確認すると、そこにある懐かしい名前の数々が、そこにある痛ましくも微笑ましい言葉の数々が、時化た海原を延々進み続けた航海と後悔を公開してきた更改しなかった悲しい自我の再生が、それでも僕の座標を世界地図の上にぴかぴか点滅させていた。