バーチャルポエム
蟻という昆虫がいる。小さな黒い虫で、だいたい1センチくらいの大きさだ。とても力が強く、自分の体重の25倍ほどの大きさの物を引きずって移動できるらしい。人間で換算してみると、体重50kgの人が1250kgの物を引きずって移動できることになる。軽自動車2台分くらいだから、つよい。蟻は土の中に巣を作り、役割分担をして生活している。卵を生む女王がいて、食べ物をとって来る働きアリがいる。働きアリは外敵と戦ったり、幼虫を育てたり、巣を整備したりもして、とてもえらい。
蟻には感情はないかもしれない。でも蟻には蟻の社会がある。
その社会は、人間の社会とは少し違うかもしれないし、蟻と人間は全然違う姿をしているから、同じ仲間とは思われないかもしれないけれど、でもだからといって、蟻に共感できないわけではないのだよな。
フィクションの世界で、フィクションのキャラクターが生活している。彼・彼女たちは、現実の人間ではない。虚構のものだ。姿形は人間に似ているけれど、全く同じではないし、不思議な能力を持っていたりして、その特性が人間離れしていることも多い。けれどその生活によって表現されるキャラクターの感情や思考は人間に似ていて、共感することも多い。まったくの作り事であることにも関わらず、まるでフィクションの中に社会があるように感じられるのは、人間が想像することができる生き物だからだ。マンガや小説や映画やアニメやゲームの世界で、音を聞き生き物の姿を見て、文化を知ったり、悪意と戦ったり夢を叶えたりするキャラクターから何か学ぶことがあるとすらなら、それはフィクションの事件を現実の論理に移行させて考えてみる、そういう想像力があるからではないだろうか。
僕は蟻の生活を実際にこの目で観察して見たことはない。せいぜいテレビやインターネットで映像を見たことがある程度の認識だ。テレビやインターネットはおそらく蟻について本当のことを教えてくれているのだろうとは思うけれど、それが現実の手触りとして、生きた現実の匂いとして感じられることはないという点で、ちょっとフィクションなのだと思う。テレビやインターネットは、当たり前のことだけれど、本当の現実を見せているわけではない。僕が見ているのはフルハイビジョンのただの映像で、それはただのモニタだ。
だから僕が蟻に共感する時、またアニメを見て共感する時、それは僕の脳内に広がる想像世界、つまり脳内のフィクション世界に対して共感していることになりはしないか。そう考えてみると、手で触れるくらいの距離にあるもの以外は、この現実はほとんどフィクションなのではないだろうか。
そういえば人間が演じているお芝居は、そこに人間が確かにいるという現実を除いて、シナリオも演出も照明も舞台も、もちろん演技も、フィクションだ。ということは手が触れられる距離にいる人間・物に接していてさえ僕は、フィクションと現実を見極めるのが難しい。虚構の人物を演じている人間は、そこに人間が確かにいるという現実を除いて、やはりちょっとフィクションだからだ。
となると、現実とフィクションの境界はどこにあるのだろうか? というのはきっと哲学の問題で、手に負えないので、ここでは自分が現実だと思ったものが現実だ、という霊的直感な方針を取り入れて次のお話をしたいのだけれど、バーチャルとは一体何を意味しているのか、ということだ。
バーチャル (英語: virtual, birtuall) 仮想化すること、もしくはされたもの。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蟻についてのお話は、すこしフィクションではあったけれどおそらくバーチャルではなかった。自分自身が観察したことが無いという点で現実ともフィクションとも言いきれない状態だけれど現実寄りの「お話」だった。というか多分現実なのだろう。たくさんの資料がそのように教えてくれるのできっと現実だと思う。99%現実だ。でもそれを言うなら99%以上の現実はみつからないかもしれない。世界にどれくらいの蟻がいるのかはわからないけれど、例えば10兆匹の蟻がいるとして、中には1匹くらい日本語をテレパシーで送ってくる蟻がいるかもしれない。世界中の蟻を全部捕まえて確かめられないから絶対にそんな蟻はいないとも言えない。UFOを信じている人の論理のようだけれど科学ってそういうものだと聞いたことがあります。
バーチャルについて考えてみると、バーチャルはフィクションの下位概念なのではないかと思う。対象を仮想化していればバーチャルで、だからほとんどのアニメはバーチャルなのだと思う。虚構の、ifの人物や道具や町や技術が、もしこうだったらという世界に存在しているように感じられる。
反対に、現実的ではないように感じられるロボットのペッパーくんは、フィクションでもバーチャルでも無いように感じる。ロボットをロボットとして作ったロボットみたいだからで、それは自動車や炊飯器の延長線上にあるようだ。しかし同じロボットでも、人間とそっくりに作られた受付嬢ロボットなどはすこしバーチャルみたいだ。その違いはどこにあるのかというと、人間を模しているというところにあるのだろう。人間を仮想化しているふうに感じられるからだろう。ではバーチャルと非バーチャルの違いは、結局はそれを観察する側の受け取り方に依存するのだろうか。包丁は食材を切り分ける道具だけれど、凶器にもなるように、使用者がどのように使うかによって区別することができるのだろうか。
あるいはもしかしたら、すべてのフィクションは潜在的にバーチャルで、その濃度が異なっているだけなのかもしれない。ペッパーくんは現実が85%で、フィクションが15%で出来ており、フィクションのうちバーチャルが20%だ、ということになるのだろうか。
少し変な考えかたかもしれないけれど、こういう区別はどうでしょう。
フィクションのうちバーチャルは、低コスト(よって低リスク)の現実で、交換が容易である。
バーチャルというと、僕はある種のテスト環境を思い浮かべる。
それはフライトシミュレーターや自動車免許講習で使う運転シミュレーターのようなものだ。現実の代わりに使用される世界だ。だからシミュレーターの世界の命は現実の世界の命とは違って交換が出来て、しかもそれが容易だ。受付嬢ロボットは、人間の受付嬢よりもきっと交換が容易である、という印象を僕に持たせた、ということなんじゃないかと思う。現実よりも制御が簡単な現実と言っても面白いかもしれない。バーチャルはチープ・リアルである。貧者の現実と呼ばれて2120年くらいになると、本物の現実の方が高価になり過ぎて誰も現実を知らないということになるかもしれない。マトリックスはいい映画だった。
今更ながらどうしてバーチャルについて考え始めたのか、それはバーチャルユーチューバーをよく見るようになったからで、もう2年ほど見ている。画面に映る二次元の顔をした人間たちを見て笑ったりしている。けれど見終わったあといつも僕は混乱した。どうしてバーチャルなのか? 何度も同じ人の生放送ログなどをみていると外見などは本当に飾りでしかないと思うようになる。喋ることや考え方が合わない人は見なくなるし、喋ることや考えることが面白いなら見てしまう。となるとバーチャルの皮は特に必要がない。バーチャルである必要もない。けれどニコ生を見たいとか、人間のアイドルが見たいとか、そういうふうには考えなかった。何故だろうか? 人間の生の表情を見なくて済むので心理的な負荷が少なくて済むとか、バーチャルの皮はいつも笑っているから楽しいとか、あるいはキャラクターが設定されているために最初からある程度演者と観客の間で共有する物語があるのでとっつきやすいとか、そもそも親の顔より見た二次元だから、とか色々な理由が考えられたけれど、一番大きいのは彼・彼女達がアニメやマンガと同じように記号的な外見をしていて、だからこそ安心して消費してもいいものだと思ったからなのだろうな。少し露悪的みたいな感じになって気持ち悪いけれど。より軽く、より早く、より簡単に、より大量に消費することを前提にしてコンテンツが作られていく現代によくあった業態だとも思う。使い捨てのアカウントを作るみたいに、RPGのアバターを作っては消すみたいに、いくらでも交換可能なバーチャルの皮は現実の肉体よりも安くて痛みなんて感じないから、だから誰も本当には傷つかないとか、思っているのかもしれないな。
バーチャルはフィクションだけれどチープ・リアルだから現実とも接続しやすい。ゲーム内の希少なアイテムを現実の現金で売る人がいたり、バーチャル訓練で現実の機械を操縦する訓練をしたり、そもそもバーチャル設計者がバーチャルを作る仕事を現実でしてもいるのだし、フィクションの中に含まれているバーチャルは、現実とフィクションをつなぐ廊下みたいにも考えられるだろう。バーチャルは現実の肉体から解き放たれて差別をなくすかもしれない。バーチャルは物理的な距離に縛られることがない。だからバーチャルは国境を超えているかもしれない。バーチャルの中ではいつでも人々は笑っている。バーチャルについて考えなければならないことはこれからもっともっと増えるはずだ。パソコンやスマホが人間の五感+1になったみたいに、バーチャルは第二の皮膚になるかもしれない。それはそれで面白い未来かもしれないけれど、もしそんな未来が来たとしても、それは蟻には全然関係がないし、そんな未来になっても、蟻はとてもえらい。