本棚の日記

 午後を少し回ってぼうっとしている。
 今日は何をするべきか考える。
 見たい映画があるから(昨日も行ったけれど)映画館に行くべきか、それとも散歩しながら読書しながら撮影でもしようか、それか家にこもって読書をしようか。
 色々考えた末、部屋の模様替えをすることに決まった。

 寝室の荷物を作業部屋に移す。
 窓を全開にしてマスクを装備した。
 除湿機使っていないシンセサイザーシュレッダー謎の花瓶保証書のくっついたダンボール箱
 移動後の空き地を掃除する。
 ほうきで大きなゴミを集め掃除機で細かいゴミを吸い取りフローリング磨きで拭き掃除をする。
 今度は空いた場所に作業部屋から机を移動させる。
 中くらいの本棚を移動させる。
 積ん読山を少しずつ崩して移動させる。
 移動後の空き地を掃除する。
 人生は物の移動に始終するのだ! と不意に思った。
 AからBへ。BからCへ。物を移動させる。お金も。体も。命も。あっちのものをこっちにやって、こっちのものをあっちへやって、ただそれだけのことがビジネスになっていて、ただそれだけのことで暮らしている人がこの世にはたくさんいるということは、つまりこの行いはおそらくとても尊いことなのだと考えた。
 ゴミを床からゴミ袋に移動することが。物をA地点からB地点へ移動することが。Aさんの家からBさんの家でいくことが。人生のあらゆる移動。移動こそ人生。旅である。

 5時間かかって物を移動し終え、それなりに見た目も整ってきた。
 シャワーを浴びてほこりをおとす。居間できんきんに冷えた麦茶を飲む。窓を閉めて、それから部屋を見回すと、以前よりスマートになったようだったので、満足感を覚え、新しい場所に移動した机の前に座ってブルックナー交響曲を聴いた。
 あなたの机からは何が見えますか? とS・キングさんが僕に問う。机は一番見晴らしのよいところに置かなければならないのだ。と彼はとある本の中で述べていた。それはもちろん目に見える景色がよいということではなく、お気に入りの場所ということだ。新しい机の置き場所でぼうっとしてみて、ここは見晴らしがよいだろうか、と考えた。

 というのは本題に対するただの枕なんだけれども、ピロートークなんだけれども、本題は本棚である。
 机の横に置いてある本棚。移動させるために中身を抜いてぐちゃぐちゃに詰め直しただけの本棚が、気になって仕方なくなり、お気に入りの並びにしなければならないという使命感が、これは確信を持って書くけれど、本が好きな人なら絶対に抱くはずだし、それは確信を持って書くけれど、永遠に終わることがない楽しみのひとつだ。
 カセットテープに、あるいはMDに、あるいはCDRに、お気に入りの音楽を入れてオジリナルアルバムを創るのと同じように、あるいはゲームの中で、キャラクターメイキングをするのと同じように、本棚を整理することは純粋に楽しい。
 整理するためだけに始めた作業がいつしかオリジナル本棚制作に変わり、スラム街もかくやというほどの無法地帯になっていた居間の本棚から本を出して寝室に持ち込み、寝室の本棚から居間の本棚へ二軍の本を移動させる。この本は読むだろうか? この本は今も好きだろうか? 少女漫画はどうするべきか? この本はジャンルはミステリなのか青春ものなのか。西尾維新さんはどうしてこんなに本が多いのか。ああ読んでない本が出てきた。この本はもう一度読む棚に置いて、こっちの本は読みたい本が終わったら読む棚に入れて、ほこりをウェットティッシュで拭いて、3巻が無い。3巻はどこにあるのか。ああ買っていないのか。携帯にメモをして。この一列は大好きな作家にすべてあげるとして、隙間は、未来の新刊に夢を託して。ああこの本を読んだのはもう何年前になるだろうか、と考えながら内容を思い出している時、僕はその本を頭の中でもう一度読んでいることに気がついた。思い出すということは、整理することだ。本棚の整理は記憶の整理だ。本棚はその人の頭の中を表している、という言葉を時々見かけるけれど、それならば自分の本棚は、やはり自分自身が最も自分を再発見する場所だ。懐かしい本達も、本棚の空白すらも、やはり僕の一部だ。居間のカオスを極めた本棚も僕なら、新しく整理された本棚も僕なのだ。本が増えれば増えるほど、永遠性を増していく本棚の整理は、埋もれていた記憶を有機的に現在へと接続する。それが楽しくないはずがない。新しい本を差し込むごとに、新しい自分がうまれている。