日曜日の日記

 日曜日はいつもひとりだ。
 朝の業務が終わった職場にひとり残され、モニタに映る変化のないプログラム群を眺め書類Aに状態を記録しクリップボードを所定の位置に戻し、ブルーライトを発散させる108個のモニタ群から目を守るためにまぶたを閉じる。
 頭の隅の方でかすかに眠気がもたげ、2時間の自由時間をいかに過ごすかの予定をたてる。眠い時には眠ってしまうのが一番だった。銀色のボールペンをノックしてボールを格納後ポケットに差し込む。少し壊れたボールペンはまだぴかぴかしている。
 ふらふらと仕事部屋からバックヤードに向かうと広い窓ガラスから春めいた陽光がオレンジと青の混色で本能的に懐かしい色。窓の外にはビルとビル。遠くの巨塔の外壁をブランコがするすると降りていくのが見えた気がした。車道には緑色のポルシェとベンツとたくさんのレクサス。都会の光景がいつも興味深いのは僕の家の窓から見えていたのが空と一本の桜の木とヒルがたくさん住んでいる小さな水たまりだけだったからだろう。
 椅子と椅子と椅子を並べると不自由なベッドを合成することができる。曲がりなりにも横になることができる合成ベッドのありがたさは、椅子の座面を包むクッションのありがたさだ。横になって腕を組んで目を閉じると陽光があたたかくて地上でも天国が垣間見えた。しばらく詮無い考え事が濃霧のように脳に充満しているが次第に晴れ、気がつくとホワイトアウトした感覚器が全認識をシャットダウンした。次の瞬間あらゆる音と光が一斉に五感を揺らしてベッドの上に飛び上がるんだけれど、耳をすましても目を凝らしてもバックヤードに異常はない。せん妄状態。眠ることに対してなんらかの強迫観念があると「眠ってしまったこと自体に対して驚くことがある」ということだろうか。この場合は仕事中だから眠りこけることに対する恐怖があるからだと思われ、完全な休憩はいつも難しい。いつだって何かしている。やりたいことがあり、そして時間は有限であるという知識が時に有害だ。一日は24時間。一週間は168時間。一ヶ月はたったの720時間。720時間をどう使えばいいのかいつも考えている。考えて考えて考えてそして結局はねむい時には眠る方がいいと結論を出す。健康は全てに優先する。虫歯の激痛を耐えながら笑い続けることはできない。
 午後の業務が開始すると仕事部屋は人の声であふれる。機械を操作する音も、電子音も。いつ声をかけられるか、アクシデントを想定しながら僕は結局はエッセイを読んでいる。吉行淳之介さんのエッセイ。文体は時代がかったものものしい感じがあるけれどノリは軽い。内容も重くない。格式高いポテトチップスみたいだ、というかカステラみたいな文章だ。読みながら仕事をしながら読んでいる。このテクニックを得るまでに4年もかかった。仕事中にエッセイを読むのに一番大事なのは気の持ちようだった。僕は今でも会社をサボってる時に優越感を感じるという人の気持ちが理解できないから、これは進化だ。
 夜勤のSさんと無言のうちに仕事を進め、いつしか再び仕事部屋には静寂が訪れる。
「こっちの仕事終わった」とSさんが述べたので「じゃあご飯行きましょう」と言ってみる。
 長い付き合いだけれど一度もご飯を食べたりしたことがないSさんだったけれど近所の麺屋の営業時間を調べ上げラストオーダー10分前になって二人で仕事部屋を出た。
 笑いながら廊下を走ってエレベーターの下りボタンを三連打する。
 エレベーターを出たら後7分、大理石のロビーを自動ドアに向かって走り抜ける。
 エスカレーターを早足で下りて下りてずっと下りて玄関の大きなガラスドアを勢いのまま押しのけて外の空気はきりっとした冬の夜気で耳がぴんと痛くなった。
 夜で都会で冬で不必要なイルミネイションがびっかびかに木の形に光っている。
 高級車が、ファッションブランドの看板を照らす強いライトが、ショーケースのきらめきが、
「ししみさん楽しそう」
 あと5分でラストオーダーも終わりだ。